「たまこまーけっと」「たまこラブストーリー」

 

「たまこまーけっと」「たまこラブストーリー」

 

本当に見ていて楽しくて、ときに切なくて、あぁ、いいアニメだなと思った。さすが京アニだけあって、ディテールへのこだわりは群を抜いているし、一本の筋が通った丁寧な話作りは好感を持てる。

テレビシリーズは喋る鳥デラのインパクトが強く、ファンタジー色も濃かったと思う。どこかミュージカル的なテンポの良さに、笑いあり涙ありのドタバタドラマといった感じで、素直に楽しい。

だが、その後を描いた劇場版では、デラたちは冒頭のショートストーリーに登場するだけで、本編にはほぼ登場しない。そういうファンタジー色を廃し、たまこともち蔵の関係を真正面から描いている。ショートストーリーはテレビシリーズと劇場版をつなぐ意味があったのだろう。

テレビシリーズのメイン舞台は、たまこの店もある「うさぎ山商店街」であり、その商店街の住民たちも、ことあるごとに登場する。テレビシリーズは、そんな商店街の住民たちを含め、餅屋の娘として生きているたまこの「場所」の話だったのに対し、劇場版は、そんなたまこの内面に踏み込んだ、「たまこ自身」の話なのだと思う。女子高生である等身大のたまこを描くため、学校のシーンも多くなっていたのではないか。

幼い頃に母を亡くしているたまこは、女子高生の自分というより、自分の家、餅屋の娘であるという意識が強いのだろう。だから、いつか自分も恋愛をすると思ってはいても、どこか自分以外の世界の出来事のように感じている。だから、王子との結婚話が持ち上がったときも、自分のことより周囲の人間たちの変化のほうに戸惑ったのではないだろうか。

そんなたまこが、もち蔵の気持ちを受け取ったとき、漠然と「餅屋の娘」として生きていこうとしている自分から、はじめて、恋愛をする「17歳の自分」に目を向けることになる。日常はゆるやかに、あるいは突然に変化していくが、そんな変化を受け入れ、彼女が一歩を踏み出す最後は、希望にあふれていたと思う。

 

11話

『大事なものを手放すことで、手に入るものもある。手元にあることだけが、幸せではないのかもしれない』

『変わりたくない、変わりたい。人の心は裏腹で、背中合わせの思いを抱え、どっこい、明日を生きていく』

劇場版

『今日はいつでも、昨日とは違う。だから素晴らしい。そして、少し寂しい。その寂しさが、日々を味わい深くする』

『後悔の苦さは、何かをした証』

『男だ。自分が決めたんなら、それでいいだろ』

 

『たまこまーけっと』

放送期間:2013年1月~3月
原作:京都アニメーション
監督:山田尚子
シリーズ構成:吉田玲子
アニメーション制作:京都アニメーション

『たまこラブストーリー』

公開日:2014年4月26日
原作:京都アニメーション
監督:山田尚子
脚本:吉田玲子
アニメーション制作:京都アニメーション

 

「デス・パレード」

 

「デス・パレード」

 

この作品は「人間の死」というものと否応なしに向き合わされる。六話のようなコメディパートがあっても、全体的に言えば見ているのが辛くなってくる展開の連続である。

死んだ人間が訪れる死後の世界。そこには「裁定者」と呼ばれる存在がいて、死者の魂を「裁定」している。裁定とは、人間を「極限状態」に置くことで、その本質を見抜き、魂を「虚無」か「転生」に振り分けることだという。「虚無」なら魂の墓場に落とされ、「転生」なら別の魂となって現世に戻される。

つまり、たとえ「転生」送りになったとしても、元の人間に生き返るわけではない。この世界に送られてきた魂の話はすでに「終わっている」のであり、裁定とはただの事後処理にすぎない。ゆえに裁定者と呼ばれる者たちに感情は必要なく、彼ら自身も裁定することに何の疑問も意味も持とうとしていない。ただ機械的に作業をしているだけの存在である。

そんな世界にあって、ノーナは、感情を持った裁定者を作り出そうとする。裁定者は裁定するだけの「人形」である。だが「人間」に近づくことはできるかもしれない。そんな「人間の感情」を持った裁定者を作り、裁定させること。それがノーナの目的であった。そして、デキムはその「実験」の結果、人間に寄り添う裁定者になろうと決意する。それは変化を望むノーナにとって希望の始まりであるが、同時に絶望の始まりでもある。その絶望の意味をもっともよく知っていたのは、裁定者のトップであるオクルスだろう。

彼は容姿が奇抜でとらえどころがなく、不気味な存在である。デキムを変化させようとするノーナの行動を嗅ぎ回っている。だが、最終話で彼が語る裁定者の条件の四つ目は、裁定者という存在の悲哀そのものである。人間と違って死が訪れない彼らは、つまり永久に裁定をくり返す人形であり、人間と同じ感情を持ってしまえば、いずれは限界が訪れてしまう。死ねないのに、死という限界を望んでしまう。それは絶望以外の何者でもないだろう。

オクルスは裁定のシステムを作り上げた存在だという。もしかしたら、人間に近づいた裁定者を過去に見たがゆえに、ノーナの行動は無駄だと悟っているのかもしれない。オクルス自身が、そのなれの果てと考えることもできるだろう。

裁定者はどこまで行っても人形である。では、人間のように振る舞い、人間の感情を理解した人形を「人間」と呼べるのか。人形でも魂が宿っていれば「人間」なのか。人形と人間の境界とは魂の有無だけなのか。「人形」は「人間」になれるのか。この作品の本質的な問いかけは、そこにあると思う。

人間の魂を裁定する場面では、人間の醜さというものを嫌というほど見せられるが、中でも「復讐」「殺人」という最も重いテーマで描かれたのは、前後編に分かれた8話と9話だ。やってきた二人のうちどちらかが殺人者だという。一人は刑事、一人は血が付いた包丁を持った青年。状況から見れば明らかなようだが、背後関係が分かっていくうちに、今度は何が正しいのか分からなくなっていく。そして、もっとも心をえぐる形で物語は終わりを迎える。

このエピソードは内容もさることながら、ストーリー上、重要な転換点でもある。混乱した裁定の場で、裁定方法自体を正面から否定した「黒髪の女」によって、無表情を貫いてきたデキムが、はじめて「苦悶」を見せるのだ。そして、このエピソードをきっかけにして、彼もまた現在の裁定方法にはっきりとした疑問を持ち、裁定の意味を深く考え始める。

ノーナの暗躍もあったが、デキムの変化の起点にあったのは「黒髪の女」の存在だろう。初めからミステリアスな彼女だが、終盤ではついに自分の過去を取り戻し、裁定の対象となる。彼女がスケートとともに過去を思い出していく場面に台詞はなく、ただ音楽とともに、彼女の人生が走馬燈のように映し出されていく。作品中、屈指のシーンであり、ここだけでも見た甲斐はあったと思わせるに十分な場面だった。

最終話、デキムは仮想の現実世界を用意してまで、彼女をより深く知ろうとした。すべては彼女を知りたいがため、人間をもっと知りたいがため。だが結局、それもまた裁定なのだ。裁定できずに持てあましたマユを、強引な方法で裁定したギンティと何も変わらない。

デキムは最終的に人間の心に近づいたように見える。だが、結局はどこまでいっても裁定者であり、裁定を基準にしか考えられない。彼女との別れ際、彼女の満足そうな答えに「素晴らしい」と応え、これからも裁定者として、人間に満足してもらえる裁定をしていきたいと語る。その答えは裁定者の域を出ておらず、やはり「人間ではない」という冷めた印象を受ける。

だが、エレベーターの扉が閉じて彼女がいなくなったとき、デキムは一人「さようなら」とつぶやく。そこには、やはり「人間らしさ」を感じずにはいられない。デキムは、なぜ彼女に固執したか。最初にデキムの前に現れた彼女が、例外的に「死の記憶」を持っていると分かったとき、なぜ自分に裁定させてくれと言ったのか。スケートリンクで記憶を取り戻した彼女に「もっと分かりたい」「会えて本当によかった」と言ったデキムの中にあったもの、それは恋愛感情ではなかったか。「裁定者は感情を知ることができない」。だが、最後に笑顔を見せたデキムに、それができなかったか。

デキムの変化は、裁定者の世界を変えるかもしれないし、結局は変わらないのかもしれない。物語は、その後どうなったかを描いていない。だが、確定的ではない未来は、人間にも、裁定者にも平等に訪れる。変わるかもしれないという予感とともに。

 

1話

『人間のもっとも原始的な感情って何か分かる? ――恐怖よ』

3話

『「人生というのは、本当に不思議です」

「それぞれの人生は、まったく別々の物語を紡ぎながら複雑に絡んでいきます。そして、結末は誰にも分からない」

「そうね、死ぬまで分からない。ううん、死んでも分かってないのかも」

「でもさ、だから面白いんでしょ!」』

9話

『悲しみだけじゃない。人の数だけ感情があるの。怒りで理性を失う人のもろさ、愛情があるから恐怖を乗り越えることができる強さ。何一つ理解できてないくせに、それでどうして、裁定なんてできるの?』

『世界が残酷なのは当たり前なんだ、世界を変えられないなら、お前が変われ!』

『人は、あんたが思ってるほど、複雑なんかじゃない。もっと単純に、簡単なことで悲しんだり、怒ったりするの。そういうもんなの! ちょっとしたことにすぐ影響を受けて、どう転ぶかも分からないのに、生きて、それが人なの!』

10話

『人間はいつか死ぬから生きるわけではないんです。生きているから、いつか死ぬんです。生きることには意味がある』

11話

『人と人は分かり合えないの。分かり合いたいって思うのは、間違いなのよ。死んでから分かるなんて、残酷だね、人生って』

『「MEMENTO MORI、死を思え、という意味があるそうです」

「いつか必ず死ぬことを忘れるな。そして、だからこそ今を生きる」』

 

『デス・パレード』

放送期間:2015年1月~3月
原作:立川譲/マッドハウス
監督・シリーズ構成・脚本:立川譲
アニメーション制作:マッドハウス

 

2018年5月6日(日) 一部漢数字を英数字に変更

 

「宇宙パトロールルル子」

 

「宇宙パトロールルル子」

 

TRIGGER設立5周年記念作品。

今石洋之監督といえば「グレンラガン」に「キルラキル」、以前記事を書いた「パンティ&ストッキングwithガーターベルト」などが思い浮かぶ。この「宇宙パトロールルル子」も独特でユーモラスな世界観をハイテンションとスピーディーな演出で突き抜けていく。

ただ、勢いがあっても見る側を置き去りにしない(させない)のは、作品に込められているメッセージがシンプルで見る側の思考を分散させないからだろう。「ルル子」の場合、一見するとただのギャグアニメで実際その通りでもあるのだが、ローカルな街「OGIKUBO」から宇宙にスケールが広がっていく一方、いくら世界が「普通じゃない」方向に向かおうとも、ルル子は最後まで恋する普通の中学生で、その「無価値」な恋のエネルギーが最終的にブラックホールをも凌駕するという、ただそれだけの話なのである。

結果、ある意味究極の「普通」とも言える「王道」展開で悪は倒され、物語は幕を閉じる。深く考えさせる暇も与えないほどのシンプルさが、この作品のいいところだろう。

いわゆる「ガイナ立ち」やキルラキルネタを挟んだり、実写を背景に取り込んだり、見ていてすがすがしいほどに自由であり、だから気楽で見ていて楽しい。遊び心全開の作品も、ときには必要なのである。

 

11話

『「普通」なんてものは、ほかの誰かが作り上げるものじゃあない。自分が自分で決めることだ。だから一番、大切なんだ』

『刑事や警察に善し悪しなんてない。常にあるのは、人の善し悪しだけだ』

『わかっているじゃないか。本当に大事なものはなくならない。目に見えないものなら、なおさらな』

『初恋をした中学生は無敵だ!相手に思いを伝えることができたのなら、残りの結果はオマケみたいなものだ』

 

『宇宙パトロールルル子』

放送期間:2016年4月~2016年6月
原作:TRIGGER/今石洋之
監督:今石洋之、雨宮哲(第2)
シリーズ構成:今石洋之
アニメーション制作:TRIGGER

 

「君の名は。」

 

「君の名は。」

 

『僕の従来の作品を観てくださっているファンの方たちには、全力を出しきっていて全身全霊なんだということが伝わるんじゃないかと思います。』

この言葉は新海監督へのインタビューの一文だが、『君の名は。』を見ていながら、私の中で一連の新海作品が次々と浮かんでは消えていった。

絶対的な時間のすれ違いは『ほしのこえ』を、輝く太陽をバックにした幻想的な場面は『雲のむこう、約束の場所』を。東京から見知らぬ土地へ旅立つ場面は『秒速5センチメートル』を、アニミズム的な魂のつながり(ムスビ)の考えかたは『星を追う子ども』を。そして御苑を中心とした新宿から四ツ谷あたりの風景や、ケンカで怪我をしたり年上を好きになっちゃうような男子高校生の姿は『言の葉の庭』を、といった具合に。

ただ、この作品が従来の新海作品と異なっているのは、随所で「楽しさ」を描きにきているところだろう。

『今だったら、ど真ん中のエンターテインメントが作れるんじゃないか、と。大前提としてまず楽しいもので、かつ自分がずっと大切にしてきた、日常につながった情緒や情動も思いきり描く作品。自分としてもそういう作品が観たかったんです。』

今までの作品は笑えないほどシリアスで、だからこそ少し暗いイメージもあった。それが新海作品にとってマイナスになっているということはもちろんなく、むしろシリアスに考えさせる作品づくりが監督のテイストだと思うし、その点は今作でも十分に発揮されている。

しかし、今作ではアニメならではのコミカルな場面づくりが見られ、「楽しさ」を意識していることが伝わってくる。監督自身はそれを『サービス』と形容しているが、それは決して観客に対する上辺だけの媚びたものではなく、無理に笑いを取ろうという類いのものでもない。「体が入れ替わったらそうなるよね」という自然な滑稽さなので、純粋に笑えてしまう。そういう掛け値なしの「楽しさ」なのである。

『君の名は。』は、今までの新海作品の終着点のように見えて、始発点のようでもある。それをもっとも感じたのは終盤の描きかたである。少しだけだが、桜の花びらが映る場面がある。新海作品を見ている方なら、そこで『秒速~』を思い浮かべるだろう。それと同時に私にはその結末の苦さといったものも思い起こされた。タイミングも終わりに近く、監督自身も『秒速~』を意識していたのではないか。

私自身は未来をはっきり規定せず、観客に託す終わりかたも嫌いではないのだが、監督はインタビューで『秒速~』についても触れていて、『バッドエンドを描いたつもりはなかった』と語っている。おそらく監督自身には観客に「うまく伝わらなかった」という思いがあったのだろう。私には今作のラストに、そんな監督の伝えたい「思い」が込められているように感じられた。

それは決して『秒速~』の焼き直しではない。漠然とした喪失感を抱かせたままで終わらせず、その先に待ち受けているであろう新たな希望を、見る側にはっきり伝わる形で描く、新海監督が得た新しい方向性の一つなのだと思う。

余談だが、今までになかった点でどうしても外せないポイントがある。それは、過去作品のキャラクターが再登場していることである。プロダクションノートによれば、似ているキャラではなく当の本人という設定だという。これもまた「楽しさ」の追求の一環だったのかもしれないが、『言の葉~』が好きな私にとって嬉しい再会であった。

(タイトル名以外の『 』内はパンフレットに依った。)

 

『君の名は。』

公開日:2016年8月26日
原作・監督・脚本:新海誠
アニメーション制作:コミックス・ウェーブ・フィルム

 

「サムライチャンプルー」

 

「サムライチャンプルー」

 

見始めた手前、最後まで見たが、各話ごとに甲乙あって評価が難しい。ただ、2クールという枠組みありきで、無理に引き延ばした感は否めない。絵も浮き沈みが激しく、特に前半は安定とはほど遠い。粗製濫造といった印象。

特に9話がいい例で、雑な絵で内容もひどい。手抜きなのは明白で、埋めなきゃいけないからと惰性で作ったようにしか見えず、どうしても描きたかったようには到底思えない。テレビ局側の都合とはいえ、テレビ放映が17話で打ち切られたことも無関係ではないのかもしれない。

細かく見ていけば良い部分もたくさんあった。1話の型破りな殺陣から始まり、8話や23話のようなテンポの良いギャグ回、11話のジンの艶っぽい話、14話の朝崎郁恵の沖縄民謡に合わせたムゲンの過去編、15話の女隠密八葉の話、16~17話で出会うオクルの話と琵琶の曲、18話のヒップホップ回、20~21話の盲目の旅芸人沙羅の話・・・と、内容ないしアクションで魅せる話も多かった。

ただ、並べてみれば印象に残った話は中盤以降に偏っている。1話の興奮が2話ですぐに途切れ、序盤が間延びしてしまったのは残念だった。また、ラストも盛り上がりに欠けた。最後まで引っ張るだけの要素も少なかったためだろう。気持ちよく終わる後味はよかったが、この結末を描くためにこれだけの長さが必要だったのだろうかと感じた。

だが、監督が結末よりも道中の旅模様に重点を置いていたと考えれば、むしろ結末は重視するものではないのかもしれない。必死で旅してきたのに結末はあっけないもの。三人にとっては人生という旅の途中で、たまたま一緒になっただけ。それぞれの旅はこれからも続き、違う話がまた始まる。そう考えれば、深いテーマを探そうとするほうが野暮なのかもしれない。

エンディングの雰囲気はMINMIの曲と相まって非常にいい味を出していた。作中でもっとも良かったのはエンディングだと言ってもいいぐらいである。面白いコンセプトだっただけに、もったいないとしか言いようのない作品だった。

 

4話


「けどな、世の中そんなに甘くできちゃいねぇ。おかしいと思ったって、首を縦に振らなきゃいけねぇときだってぇあんだよ」

「くっだらねぇ」

「なに?」

「言い訳しながら生きてんじゃねぇよ。テメェの生き方決めるのはテメェ自身だろ」

 

11話

『そりゃ、つらいことだってあるわよ。でもね、私は本当に悲しいとき、笑うのよ。悔しいから笑い飛ばしてやるの』

 

17話

『義理が廃れば、この世は闇よ』

 

20話


「私は、ずっと暗い道を歩いてきた。でも、人間どんなことにも慣れるものよ。見えなくったって色んなことが分かるようになってくる・・・。だから、憐れだとか思わないでほしい」

「馬鹿言ってんじゃねえよ。あんな唄、幸せな奴に唄えるもんかよ」

『幸せなんて言葉は、ずっと知らなかった。ただ、あの子が生まれたとき、人並みに夢を見ちゃっただけ・・・』

 

『サムライチャンプルー』

放送期間:2004年5月~9月
原作:マングローブ
監督:渡辺信一郎
アニメーション制作:マングローブ

 

2018年5月6日(日) 一部漢数字を英数字に変更

「聲の形」

 

「聲の形」

 

売れて話題になるほどの作品ならばニュースにもなるこのご時世、『聲の形』のタイトルだけはいつからともなく目にしていたが、読んでみようか、と考えながらも結局読まず終いだった。

最近はほとんど漫画を読まなくなった。読めば面白いものも多々あるに違いない。だが自分から積極的に読みにいくことはなくなった。どうしてと考えるに、おそらく、いつ終わるともしれない物語をたくさん抱え込むことに疲れたのだろう。漫画やラノベ原作のアニメも手を付けなくなり、もっぱらオリジナル作品ばかりを見るようになっている。

それでも今回『聲の形』を見ることにしたのは、以前見た『たまこまーけっと』と、その劇場版である『たまこラブストーリー』が非常によくできており、その監督、脚本コンビ(山田尚子、吉田玲子)による制作ということが一番の理由だが、原作が完結しているということも大きかった。原作が完結していなかったのなら、あるいは見なかったかもしれない。

長くなったが、つまりそういったわけで私は原作を読んでいない(これを言いたかった)のだが、そういう立場からいえば、原作がどういうものであれ、この映画はきれいに完成されている。原作からそぎ落とされた部分も、もちろんあるのだろう。だが、それを補完しなくてもいいほどに最後まで丁寧に作り込まれており、見てよかったと素直に思える作品である。

小学生時代、聴覚障害を持つ「硝子」をいじめ、それが問題視されてからは逆にいじめられる立場に立たされる「将也」。因果応報という名の業だろう。わんぱくでガキ大将だった将也は、いつからか人の顔を見られない、人と付き合うことに臆病な人間になってしまう。

「いじめた」という過去はそれだけ重くのしかかる。手話を勉強したのも、硝子に再会したのも、すべては罪滅ぼし、懺悔なのだろうか。いじめて、いじめられた自分が、友達を作ったり、楽しんだりしていいのだろうか。そんな問いが常に将也を苦しめている。

それはどこまで行っても将也の問題であるが、それは「いじめ」に関わった周囲の人間にとっても同じことであり、いくら月日が経っても、抜けることのない「トゲ」となって彼らの心に刺さりつづけている。みんな心にわだかまりを持ち、でも、どうしたらいいか分からなくて、目を逸らし続けている。

それでも、である。この作品は、それでも、のその先と真剣に向き合い、真摯に描いている。辛く、苦しい経験の乗り越え方は人それぞれで、乗り越えられないことも、たとえ乗り越えたとしてもすべてが解決しないことだってある。それでも、人は前に進める。「こんな辛いことはこの先いくらだってある」というメッセージは力強く、心に響く。

見ていて辛くなるほど痛みを伴う作品だが、人同士の距離を誠実に描いていることへの裏返しでもある。見ていていろいろな感情が浮かび上がってくるのを感じた。

 

『聲の形』

公開日:2016年9月17日(土)
原作:大今良時
監督:山田尚子
脚本:吉田玲子
アニメーション制作:京都アニメーション