「マクロスΔ」

 

「マクロスΔ」

 

去年から見始めたマクロスシリーズも、2017年時点の最新作に到達することになった。

本作『マクロスΔ』(以下、デルタ)はマクロスシリーズ7作目、テレビアニメとしては4作目にあたる。各作品の中身が濃いせいか、通算で二桁に届いていないというのが少なく感じる。

時代設定は西暦2067年、前作『マクロスF』(以下、フロンティア)の8年後の世界である。『超時空要塞マクロス』(以下、初代マクロス)の早瀬未沙が艦長を務めるメガロード-01を旗艦とした「第一次超長距離移民船団」が地球を飛び立ったのは2012年。そこから、実に55年という月日が経過している。あのマックスとミリアに孫がいるというのは隔世の感がある。彼らはまだ生きているのだろうか。

ちなみに、公式サイトの誕生日から計算すると『マクロス7』(以下、7)のバサラは43歳、『フロンティア』のランカは24歳あたりになっているはずである。バサラは40を過ぎても変わっていないと思うが、24歳のランカがどうなっているのかは非常に気になるところである。


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今作を象徴する要素の一つに「風」がある。同じく「風」という要素を取り入れ、プロトカルチャーにまつわる点などで本作と共通点も多い『マクロスゼロ』(以下、ゼロ)の重い雰囲気とは違い、全体的に軽やかで、こなれた感じである。主人公のハヤテにしても、自由奔放なところはありつつも、基本的には素直で気のいい男である。今までのマクロス作品の主人公で、ここまで素直かつ爽やかなキャラがいただろうか。

ただ、作品を通してそういった軽やかさを感じる分、後味が残るような苦みもない。全体的にやや薄味というのが私の印象である。とはいえ、最後まで安定した作りできれいにまとまっていて、ストーリー的にもシリーズの重要な位置を占める作品になっていると思う。特に50年以上前に行方不明になったというメガロード-01の消息に触れたという点は、なぜ今作で触れたのかという意味においても興味深い。それが、ついに最後まで登場しなかった「レディー・M」なる人物の活動とつながっているとなれば、なおさらである。

「可変戦闘機バルキリー」は今作でも健在だが、そのバルキリーが「踊る」という発想は今までなかったように思う。例えば『マクロスプラス』(以下、プラス)ではイサムが遊ぶように飛んではいたが、踊るという感じではなく、『フロンティア』ではアルトが元歌舞伎役者ではあったものの、戦闘で踊るといった描写はほぼ描かれなかった。バトロイド形態は人型なのに「踊る」という要素がなかったというのは、私には新鮮な驚きだった。

また、今回の主な歌い手「ワルキューレ」は、今までに登場したような単体の歌手ではなく「アイドルグループ」である。その発想は『7』のジャミングバーズに近いと思っていたが、公式サイトによるとメンバーのデータがワルキューレ結成にも生かされていたようである(「MACROSS PORTAL」用語集)。第11話でワルキューレのメンバーがタイヤを引いて走る「昭和のスポ根」的な特訓シーンも彼女らを思い起こさせる。

何より、まるで「魔法少女が変身するアニメ」のようなファンタジックな雰囲気は、今までのマクロス作品からすれば異色とも思える。だが、今まで異色ではないマクロスがあっただろうか。『7』という異色すぎる作品を筆頭に、もはや自由で尖っていなければマクロスではないとすら言えそうである。『初代マクロス』からして、それまでにない新しいものだったからこそ驚きとともに迎えられたのである。現実にも「アイドルグループ」が乱立し、アイドルを意識したアニメ作品も作られる昨今である。その流れに乗ったとも、抗えなかったとも言えそうだが、常に新しいものを求めるマクロスらしいと言えばらしいとも言えるのではないか。

そして、そこはやはり「マクロス」でもあり、必然的に「血生臭く」なる宿命にある。ワルキューレが所属するケイオス自体が「アイドル事務所」といった趣ではあるが、そのケイオスは『フロンティア』で言えばS.M.Sのような民間軍事会社であり、依頼を受けて戦場で仕事をするプロの集団である。ワルキューレもまた「トップ」を夢見るだけのアイドルグループではない。戦場で傷つき、幾たびも失敗を繰り返し、メンバーも辞めていきながら、それでも歌い続けて成果を出してきた。だからこそ、第25話でカナメが口にした「夢」という言葉にも重みが出てくるのだろう。それまでの積み重ねが終盤で生きてくるのを見られるのも、2クールもののいいところである。


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マクロスというシリーズには、一貫したテーマとは別に、同じシリーズでありながら各作品で全く違う「個性」があり、それが「マクロス」という世界を広げることにもつながっている。では、『デルタ』という作品特有のテーマは何か。私は、それは「二面性」ではないかと思う。

例えば次元兵器に関する認識の違いもその一つである。作中で真相は明かされるが、それまではウィンダミアと地球人類(新統合政府)の見解は食い違っていた。本当のことが分からなければ、属する側によって見え方が変わる「真実」という魔物。ライト・インメルマンという人物についても同じことが言える。行動の真意、本当の思いはどこにあったのか。曖昧な事実と個人的な印象が一人歩きし、実像と虚像を生み出していく。

あるいはロイドとキースの関係もそうである。ロイドはウィンダミアを裏切ろうとしたわけではなく、むしろ王国の再興に熱心な人物だったとさえ言えるだろう。だが、プロトカルチャー研究を続けてきたロイドは、ウィンダミアこそがその正当な後継者であるという考えに固執してしまう。結果、「星の歌」で全人類をつなげ、ウィンダミアを中心とした永遠の平和を得ようとしてしまった。そこにはウィンダミア人の寿命の短さへの抵抗もあったのだろう。それに対しキースは、短いからこそ一瞬を命がけで生きることに価値を見出していた。これは「今がいっぱいいっぱい」(第9話)と言うフレイアに通じるものがある。

短いからこそ永遠を求めるか、短いからこそ一瞬を生きるか。ロイドとキースの違いはそこにあった。かつて同じ空を飛びながら、見つけたものは決定的に違っていたということだろう。これも二面性と言えるのではないか。


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「マクロス」と言えば、やはり「歌」を抜きには語れないだろう。ただ、実際は歌それ自体というよりも人が歌う理由や、歌が持つ可能性、歌を含めた「文化」によって異星人、あるいはバジュラのような特異な生命体とさえ分かり合えるのかといった疑問、そういった「歌」に絡む様々な要素と向き合おうとするのが「マクロス」というシリーズではないかと思う。

本作ではワルキューレのメンバーがそれぞれ「歌は○○」と言う場面がある。第4話で言えば、「歌は愛」(レイナ)、「歌は希望」(マキナ)、「歌は命」(カナメ)、「歌は神秘」(美雲)、「歌は元気」(フレイア)である。この「歌は○○」という言葉は『フロンティア』の劇場版(後編)のポスターにもキャッチコピーとして使われている。第一弾から順に「歌は魔法」、「歌は祈命(いのち)」、「歌は死なない」の三つである。特に「歌は魔法」という言葉について監督の河森氏は、「『マクロスF』を作っているときに、『そうなんだな』って再認識した点でもある」と語っている(パンフレット、P.5)。もちろん、マクロスに魔法は出てこない。だが「歌」というものは限りなく魔法に近い存在、そう思わせてくれるのも「マクロス」という作品の面白さではないだろうか。

そして、上記のワルキューレメンバーの台詞のうち、ポスターのキャッチコピーと共通したキーワードを持つのは「歌は命」と言うカナメただ一人。ポスターに「歌は祈命」というキャッチコピーとともに描かれたのは、傷つきながらも立つシェリルである。この一致には何か特別な意味があるのではないか。そこに込められたものを探ってみたい。


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シェリルとカナメ。一見すると共通点は少なそうに思える二人だが、実は似ている点も多い。そのポイントは大きく分けて三つある。「幼少時の過酷な経験」、「栄光と挫折」、そして「心の強さ」である。

一つ目の「幼少時の経験」。シェリルは幼い頃をマクロス・ギャラクシーのスラムで過ごし、残飯をあさるような生活をしていた。カナメは内戦状態の惑星ディバイド出身で、戦闘に巻き込まれた経験もあると過去のオーディション(第21話)の際に語っている。状況は違うとはいえ、ともに幼い頃から過酷な状況を経験していると言えるだろう。その経験が非常時にも動じない力強さを育んだのではないか。

次に、「栄光と挫折」。シェリルは「銀河の妖精」と呼ばれるほどのトップシンガーに上り詰め、カナメはワルキューレのリーダーにしてエースとしてメンバーを引っ張る存在となる。そして、シェリルはランカという新人アイドルに、カナメは美雲という新メンバーにトップの座を譲ることになる。ただ、カナメはワルキューレに加入する前、アイドルとして一度挫折を経験しており、そのためか美雲という存在にもすぐに白旗を揚げられたように感じられるが、シェリルはトップシンガー「シェリル・ノーム」であることに強いプライドを持っていた分、その転落も激しいものとなった。この点はテレビシリーズと劇場版で展開が異なるが、「V型感染症」の悪化も相まって、歌を捨てるところまで追い詰められるという点では共通している。

そして、三つ目の「心の強さ」。これは一つ目、二つ目とも関係している。二人は基本的に面倒見がいい。シェリルのランカに対する態度は、ライバルというより気のいい先輩といった感じであったし、カナメは自分でも語っている通り、メンバーをまとめることに長けているところがある。これは過酷な経験から自然と身についた性格ではないだろうか。そして、それゆえか自分の能力の限界を人のせいにしない潔さがある。シェリルはランカの登場で自分の人気に陰りが生まれたことを悟りながら、決してランカに(少なくとも歌手としては)嫉妬を向けたりはしなかった。カナメは初めて美雲の歌を聞いたとき、すぐに「負けたな」と感じたが、その場で気持ちを切り換え、ワルキューレの目指す方向を再認識した。

二人とも、そこに悔しさがなかったわけではないだろう。人間である以上、そこには複雑な感情が生まれるはずである。だが、それを自分を高めるエネルギーに変えることは、精神的なタフさがなければできないことである。そんな二人の共通性を示す上で、「命」という言葉はこれ以上ないキーワードではないかと思うのである。

なぜ、カナメにシェリルと共通したキーワードを与えたのか。もちろん、ただの偶然かもしれない。だが、もし意味があるとすれば、それはカナメをシェリルに重ねて見てほしかったという思いではないか。そう考えれば、かすかな希望を残しつつも昏睡状態のままに終わった「劇場版」のシェリルに、力強い「命」を与えるという意味も見えてくる。


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「歌」というテーマで言えば、さらにもう一つ、本作の中で歌について語られた言葉がある。第19話、イプシロン財団の武器商人ベルガーがケイオスを訪れた際に語った、「歌とは究極の兵器」である。この言葉はプロトカルチャーの時代から2067年に至るまでの歴史を語るベルガーが、自分の得た結論として述べたものである。マクロスシリーズを通して見れば、この言葉は核心を突いた言葉であることが分かる。

歌は使い方によっては兵器利用できるという発想は過去の作品でも示されてきた。例えば『7』では、プロトデビルンに歌で対抗する「サウンドフォース」や「ジャミングバーズ」が結成され、『プラス』では人間でさえ歌に操られる危険性も描かれた。それらの要素が総合された結果、『デルタ』では歌で人間を操ろうとする側(ウィンダミア)と、それに抗う音楽ユニット(ワルキューレ)という構図が生まれたのではないか。

さらにベルガーは、50万年前に栄えたプロトカルチャーの時代でも「歌の兵器利用」が考えられていたという仮説を立てている。実際、「風の歌い手」たるハインツの歌でプロトカルチャーの遺跡は起動し、ウィンダミアの遺跡に残っていた細胞片が「星の歌い手」のものであることが判明するなど、プロトカルチャーと「歌」という要素は深く結びついていたことが示される結果となっている。

「プロトカルチャー」という要素は『初代マクロス』から登場し、その謎めいた存在の成り立ちから終焉までが『7』によって明らかにされた。そして『ゼロ』では、ハスフォードによって唱えられた「プロトカルチャー干渉仮説」(外的要因による人類の進化)が、「鳥の人」の体液とマオの血液が一致したことによって証明された。そうして少しずつプロトカルチャーと人類のつながりは描かれてきたが、『デルタ』ではプロトカルチャーが生み出した、いわば人類の兄弟のような異星人が複数登場することになる。


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西暦2012年以降、多くの宇宙移民船団が地球を出発し、旅の行く先で様々な居住可能惑星を発見している。中にはウィンダミアのように、すでに文明を持つ種族が住む星もあった訳だが、プロトカルチャーが人類を生み出したのなら、遺伝子を「デザイン」された人類種が地球以外にいても不思議ではないということになる。過去の作品でも『マクロスⅡ』(以下、Ⅱ)で異星種族マルドゥークが、『マクロス ダイナマイト7』で惑星ゾラに住む原住民族ゾラ人が登場しており、プロトカルチャーの遺伝子操作によって生まれた種族が宇宙にはたくさんいると思っていいのだろう。この点に関しては『フロンティア』の第16話で「14の惑星で文明の痕跡」と具体的な数字が出ており、『デルタ』でも第7話冒頭のナレーションで「多くの人類種を作り上げた」と語っている。

問題は、その惑星に住む人々にとって「人類は敵か味方か」ということである。彼らからすれば、突然、空からやってきた地球人類こそ未知の「異星人」である。いきなり国交を樹立しろと言われても、なかなか割り切れるものでもないだろう。それでも恩恵を考えて国交を結ぶ国もあれば、当然、反発する国も出てくる。

プロトカルチャーの遺跡が多数残るブリージンガル球状星団、中でもウィンダミアという星に人類が辿り着いたのは40年前というから、2027年頃である。そこで人類と不平等条約を結ばれたウィンダミアは、7年前に独立戦争を起こし、次元兵器の使用によって停戦状態となった。ウィンダミアが地球人類を憎む動機の一つは、7年前の次元兵器の使用であり、ウィンダミアの大地に今なお残る深い爪痕がその憎悪をかき立てている。

そこには力を背景に「統合」という勢力圏を拡大しようとする側と、それに抗う人々という構図がある。これは『ゼロ』では統合政府と反統合同盟の戦いとして描かれた。そしてどんな時代にも弱い方が淘汰されていく。また人類の歴史を顧みても、大航海時代以降、「文明」という火に原住民族は追い立てられ、数を減らし、その文化を失い続けてきた。

その人類が宇宙へと旅立っていく。それは果たして良いことなのか、悪いことなのか。そういった疑問を『ゼロ』以降、河森監督はマクロスの主題に置いているように感じる。新統合軍を徹底して役立たずの憎まれ役にしているのも、決して人類がすべて正しいわけではないということを表しているのではないか。『ゼロ』でノーラは「国も領土も、人の命も、自分たちの手に入らないものは全て破壊する、それが統合軍のやり方さ」と語っている。彼女は反統合同盟の人間であるため主張を鵜呑みにはできないが、統合側のやり方を見る限り、あながち間違ってもいない。そんな統合政府だからこそ、反統合勢力もなくならないのだろう。

そして、それは「新統合政府」というフィクションだけの話だろうか。組織が肥大化すれば、ほころびを見せるようにもなるし、都合の悪いことは組織ぐるみで隠蔽するようにもなる。現実にもそういう組織が、我々の身近にいないだろうか。「統合」という思想は、現実社会への痛烈な皮肉にもなっていると思う。


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今作ではハヤテ、フレイア、ミラージュという三人の関係を中心に話が進んでいく。ミラージュはケイオス所属だが、かつては新統合軍に所属していたという。三角関係の中で女性が軍経験者かつパイロットなのは『Ⅱ』のシルビー以来だろうか。いずれ女性軍人パイロットが主人公で、男性歌手二人が奪い合うような話も生まれるのかもしれない。あまり想像できないが・・・。

マックスとミリアの孫にあたるミラージュはガチガチの軍人肌で、馬鹿が付くほど真面目なところがある。その飛び方はメッサーには「教科書通り」、ウィンダミアのヘルマンには「考え過ぎ」と指摘され、本人は才能がないと思っている(実際はそんなことはないのだが)。そんな真面目すぎる少女のため、たまに台詞が長くなる場面もあるのだが、その一つに新統合軍時代の経験を語ったものがある。第6話、初めて戦場を経験したハヤテに語りかける場面がそれである。

今作では、『ゼロ』以来となる人類同士の戦争が描かれた。それは人が人を殺す戦いにほかならない。ミラージュは、そんな経験を乗り越えることなんてできない、だから平気なフリをする方法を覚えろと言う。一人殺した重荷も、誰かの幸せを一つ守れたのなら意味があると説く。彼女もまた歴戦の兵士であり、戦場で人を殺す意味を語る言葉には重いものがある。だがそれ以上に、彼女の独白には『ゼロ』から続く、河森監督の言いたいことが凝縮されているように感じるのである。戦争を題材とするマクロスを描くからこそ、そこには確かな哲学がなければならないのかもしれない。

戦争はこれからもなくなることはないだろう。ならば考え続けなければならないのではないか。そして戦争を考えるということは、戦場に立つ人間のことを考えることではないか。ミラージュの言葉から、私はそんな考えを受け取ることができたし、そういった疑問と答えを見つけられるところに「マクロス」という作品の魅力があるのだと思う。


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今までのマクロス同様、デルタも印象的なシーンがたくさんあった。例えば第3話、画面越しのハヤテの機体にフレイアが手を重ね一緒に踊る場面は爽やかで気持ちが良くて、第10話のメッサーとカナメの会話は、遅かれ早かれ悲しい結末が来ることを予感させた。第21話のワルキューレ結成秘話は、ただのアイドルグループに見えていた彼女たちに奥行きと背負っているものの重さを与え、第25話でハヤテが父からの手紙をフレイアと読むラストから「愛・おぼえていますか」への流れに、密かにミラージュを応援していた私も、これはこの二人で決まりかと思わざるを得なかったりもした。

他にも挙げたいシーンは色々あるのだが、もっとも印象的だったのは、第6話で美雲からフレイアへ、そして最終話では逆にフレイアから美雲へ投げかけた「なぜ、どんな思いで歌うのか」という問いかけである。過去のマクロス作品に登場した歌手たちも皆、この「なぜ歌うのか」という問いに直面している。

なぜ、どうして歌うのか。これは「歌」という存在を扱ってきたマクロス作品にとって、とても「マクロスらしい」問いかけである。そして、これからのマクロス作品でも絶えず問われていくであろう、マクロスの永遠のテーマではないかと思う。

 


『マクロスΔ』

放送期間:2016年4月~2016年9月
原作:河森正治、スタジオぬえ
総監督:河森正治
監督:安田賢司
シリーズ構成:根元歳三
アニメーション制作:サテライト
製作:ビックウエスト、マクロスデルタ製作委員会

 

「マクロス ゼロ」

 

「マクロス ゼロ」

 

本作『マクロスゼロ』(以下、ゼロ)は、マクロスシリーズ生誕20周年を機に制作された。時代設定は西暦2008年であり、マクロスシリーズの第一作『超時空要塞マクロス』(以下、初代マクロス)の前日譚にあたる。

「ASS-1」と名付けられた宇宙船の落下以来、地球では異星人に対抗するための統合思想(統合政府)とその抵抗勢力(反統合同盟)によって紛争と内乱が多発するようになっていた。「統合戦争」と呼ばれる一連の争いは、統合政府の樹立によって一応の終結を見ていたものの、その後も両者の戦闘は継続し、本作の「マヤン島事変」へとつながっていく。西暦2067年を舞台にした『マクロスΔ』でも、新統合軍にいた頃のミラージュが「反統合勢力」と戦闘経験があると語っており(第6話)、反統合側の根の深さをうかがわせる。

また、今作でノーラが統合軍の残虐性を語るなど、統合政府が決して正義の味方ではないと思わせる描写はマクロスシリーズでたびたび散見される点である。統合軍のシンも反統合軍のノーラも、急激に一つにまとめられていく世界の被害者であり、心と体に深い傷を負っている。地球人として一つにまとまると言えば聞こえはいいが、統合することは痛みを伴うものであり、またそれまで存在した文化に「上書き」してしまうことでもある。

この「統合」とは「侵略」と同義ではないのか? 今作を見ながら、そんな疑問を投げかけられているように感じた。そして、その疑問は、バジュラとの戦いを描いた『マクロスF』や、ウィンダミアとの戦争を描いた『マクロスΔ』にも受け継がれていったように思う。マヤンの現状を通じて描かれた、土着の文化が掻き消されていく過程もまた「統合」という波を象徴している。マヤンのような島にも文明の波は押し寄せ、若い者は島を出て行って戻らない。都会という火に憧れてしまうのは、島を守る立場にあるサラであっても例外ではなく、もはやその流れに抗うことはできないだろう。そういった諦めに似たものが作中には漂っているように感じられる。


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本作はかなりのリアル路線であり、特に空戦シーンは鬼気迫るものがある。また、フォッカーの乗るvf-0の変形シークエンスは、今までのバルキリーが一瞬で変形していたものを細かく描いていて、こんな風に変形するのかと、そのリアルさに目を奪われた。

なぜ、そこまでリアルに描いているのか。それについては劇場版『マクロスF』(前編)のパンフレットにある河森監督へのインタビューが参考になりそうである。監督が『ゼロ』の取材でラオスを訪れた際、実戦経験もある案内人に「戦争はかっこいいことなんかない。もし映画を作るなら戦争体験なんかリアルに描かず映画ならではの "嘘" として描いてくれ」と言われたという。その翌日、バンコクの空港でアメリカの同時多発テロのニュースに直面した監督は、帰国後、テロのニュース映像を「ハリウッド映画」のように感じたと語る人が多かったことに、「現実のニュースやテーマ性を突き詰めたドキュメンタリーですら、伝わらない」と思い知らされたといい、『ゼロ』は「神話として描くしかない」と思ったという(パンフレット、p.22)。

「リアルに描くな」と言われながら、作品は徹底的にリアルである。これは矛盾しているようにも思えるが、テロのニュースに関する下りのように、映像がリアルであればある分、それは「嘘」の度合いを増していくのではないか。テレビ越しの「戦争」が、まるで映画だと思えてしまえるように。リアルなCGを駆使した映画が、限りなく「嘘っぽく」見えるように。そう考えれば、本作を徹底的にリアルに描いたのも、逆に「嘘」の度合いを強めようとした狙いがあったのかもしれない。リアルに描けば描くほど嘘に近づくというのはアイロニーを感じて興味深い。ただ、それでもミリタリー色が強すぎたのは、個人的にはやや残念な点だった。あまりに力み過ぎではなかったかと思う。


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この作品を見て何よりも嬉しかったのは、フォッカーを再び見られたことである。キャラクターデザインには美樹本氏も協力しており、声は神谷氏と、まさに「あの」フォッカーである。リアルになった分、昔の方が老けて見えるのは面白い現象だと思うが、酒癖、女癖もさることながら、やはり歴戦のパイロットであったことが改めて分かり、それだけでも見た甲斐はあったというものである。

また、フォッカーとアリエスが昔を語り合う場面や、「鳥の人」と一体化したサラの元へシンが飛び込んでいくシーン、マオがシンを見送るラストなど、今作には心に残る場面がいくつもあったし、考えさせる点も多かった。プロトカルチャーと人類の関係もより具体的に描かれ、マクロスを語る上で外せない作品になっていると思う。

それだけに場面転換やストーリー展開など、演出面で目に付く部分があったのはもったいなかった。このゼロこそ、一本の総集編として見たかった。

 


『マクロス ゼロ』

発表期間:2002年12月21日~2004年10月22日
原作・監督:河森正治
脚本:大野木寛
アニメーション制作:サテライト
製作:     ビックウエスト、バンダイビジュアル

 

「マクロスプラス」「マクロスプラス MOVIE EDITION」

 

「マクロスプラス」「マクロスプラス MOVIE EDITION」

 

(※ 本作の劇場版はOVA版を再編集した上で台詞や新規カットを追加したものとなっている。そのため本レビューではOVA版と劇場版を同時に扱うこととし、その相違についても触れていく。)

 

OVA版『マクロスプラス』及び劇場版『マクロスプラス MOVIE EDITION』は、TVシリーズ『超時空要塞マクロス』(以下、初代マクロス)放映から12年を経て制作された。

同時製作のTVシリーズ『マクロス7』が明るいコミカル路線だったのに対し、『プラス』は徹底したリアル路線を取っている。その点について原作・総監督の河森正治氏はインタビューで次のように語っている。


『実写的というか洋画的な切り口で『マクロス』世界をとらえたエピソードが『プラス』であるし、反対に漫画的なノリで作っていくような解釈で捉えたものが『7』であるというわけです。(中略)『マクロスプラス』とは、対極にありながらも、根本概念は共通しているんです。』(劇場版パンフレット、河森正治インタビュー)


私は『プラス』を見た後に『7』を見たため、そのあまりのギャップに戸惑ったのを覚えている。『プラス』がいわば初代マクロスから続く「正統進化版」という印象だったのに対し、『7』があまりに想像の斜め上を行く作品だったためだ。

だが『7』を見終わった今となっては、『プラス』と『7』、そのどちらがいいということではないと気づかされる。確かに『プラス』のリアリスティックでアダルトな世界観は素晴らしいが、『7』の明るくて一途な雰囲気も他では味わえない魅力を有している。両者とも常に新しいものを求める河森正治という人によって描かれる「マクロス」なのだと感じる。


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今作の主な舞台は「エデン」という惑星である。初代マクロスで描かれたゼントラーディとの戦争から30年経っており、ゼントラーディとのハーフも普通に存在する社会が形成されている。主人公の一人であるガルドもそんなハーフの一人だが、興味深く感じたのは、そこにゼントラーディへの差別がほのめかされている点である。

例えば第3話、模擬戦闘内で起きた事件を話し合う会議の場面でゴメス将軍は、ガルドに流れるゼントラーディの血を問題視するような発言をしている。また劇場版では過去のわだかまりが解けたイサムとガルドの会話中、ガルドが「ゼントラーディの」自分を憐れんでいるのかとイサムに問う台詞が追加されている。これはガルドもまた、自分がゼントラーディの血を引いていることに複雑な感情、コンプレックスを持っていたようにも思われる。

ただ、イサムとガルドの上官であるミラードは、ガルドがゼントラーディの血による闘争本能を抑圧している可能性を知りながら、それをあえて無視し、パイロットとしてのイサムとガルドを平等に扱おうとした。また兵士の間でもゼントラーディを隔てるような空気は特に感じられず、時間の経過によって両者が溶け込みつつあることを思わせる。

『7』でもゼントラーディの闘争本能がミリアを巻き込むテロ事件にまで発展する様子が描かれたが、同時にエキセドルらがプロトカルチャー(メッセンジャー)と接触する場面では、ガルド同様に混血児であるミレーヌをもって「平和の証」と表現している。異種族との邂逅や融和という初代マクロスの最も大きなテーマは、目立たないながらも『7』と『プラス』にもしっかり流れているように思う。


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本作が「マクロス」という名を冠していても、実際にマクロス(SDF-1)が登場するのは終盤、それもシャロンに操られるだけの人形のような存在としてである。その代わり重要な位置を占めているのが「可変戦闘機バルキリー」である。

マクロスシリーズを代表する要素の一つであるバルキリーだが、初代マクロスでは輝をはじめとする登場人物たちの「戦闘の手段」に過ぎなかった。しかし本作ではバルキリーの進化もテーマの一つとなっている。初代マクロスの第33話、フォッカーがバルキリーの可能性について語るシーンを思い起こさせる。

今作では第1話の冒頭、イサムが散発的な戦闘をするシーンが唯一の「戦争」描写であり、戦闘シーンの大半は人類が作った戦闘機同士の戦いである。「YF-19」、「YF-21」という新型試作機が登場するが、どちらも有人戦闘機であり、イサムとガルドがそれぞれのテストパイロットとして搭乗し、ライバル関係そのままに腕を競い合うことになる。

人が飛ぼうとした歴史は古く、その延長線上に戦闘機も存在している。人が飛ぼうとしたから、飛ぼうとしてきたから「今」がある。自身もパイロットだったというミラードは「人が飛ぶ」ということを「挑戦」と捉えていた。しかし、同じ空を飛ぶ「飛行機」であっても、無人機は意味合いが異なる存在である。そこには人が飛ぼうとする「意志」が存在せず、ゆえに人類の「挑戦」もまた存在しない。

無人戦闘機の完成を知ったミラードが「挑戦は終わった」と語ったのは、空という果てしないはずの世界が人類の挑む場所ではなくなったという意味だろう。この点はOVA版では若干分かりにくかったが、劇場版で台詞が追加されたことで意味合いがはっきりした印象である。


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そのように劇場版で明確になった点は他にもある。例えばルーシーとイサムのシーンが増えたことで、ルーシーの気持ちの揺れ動きが存在感を増したのもその一つである。だがもっとも強調されていると感じたのは、ミュンが持つ「歌うことへの未練」、さらに言えば、歌うことで誰かを感動させたかったという思いの深さである。

過去から目を背けていたのは、ガルドだけでなくミュンも同じだった。夢を忘れようと自分の歌を捨てたミュンにとって、いまだ夢の途上にあるイサムもガルドも、そばにいるだけで辛い存在だったのだろう。ミュンの「変わってほしかった」という言葉には、自分は変わってしまったから二人にも変わっていてほしかった、夢を諦めた「普通の大人」になっていてほしかった、そんな気持ちが含まれていたように感じられる。

また、劇場版ではミュンが気持ちを吐露する場面で台詞が変化しており、OVA版では「誰も自分に気づかない」といったニュアンスだったものが、劇場版では「気づいてほしかった」という悔しさをにじませるものになっている。

そんなミュンの心から生み出されたシャロンは、ミュンの持つ感情そのものである。すでに自我が芽生えつつあったシャロンは、ほかの誰よりもミュンの気持ちを理解し共感してしまった。歌で感動させたかったという思いの裏側に、本当はイサム一人を感動させたかったという思いがあったことも、そのイサムの心はミュンではなく「遙かな空」に向けられていたということを知ってしまった気持ちまでも。

ゆえにシャロンはミュンの気持ちのままに行動しようとした。イサムに大空を駆けるイメージを与え、感動させようとした。シャロンが一貫して持っていた目的、それは「イサムを喜ばせたい」という、ただそれだけだったのだから。


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劇場版で追加されたラストシーンでは、壊れかけたシャロンが一人つぶやき続ける。イサムを喜ばせようとしただけなのに「ナゼ」と疑問を繰り返し、最後までイサムは感動できたのかと問い続ける。

その光景は答えを求めることしかできない機械ゆえの、無機質な哀切に溢れていた。

 


『マクロスプラス』『マクロスプラス MOVIE EDITION』

発表期間:1994年8月25日~1995年6月25日
劇場版公開日:1995年10月7日
原作:スタジオぬえ/河森正治
総監督:河森正治
監督:渡辺信一郎
脚本:信本敬子
アニメーション制作:トライアングルスタッフ
製作:バンダイビジュアル、ビックウエスト、ヒーロー、毎日放送、小学館

「プラスティック・メモリーズ」

 

「プラスティック・メモリーズ」

 

この作品を見るのは二度目である。一度目は放映時だったが、できれば最初から最後まで一気に見たいと思うようになり、最終回を迎えるまであえて見ないようにしていた。

それから色々あって(要はすっかり忘れていたのだが)、ふと思い出し、折しもマクロス熱がゼロで一旦引いたこともあって、この機会に見ることにした。


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世界的大企業SAI社によって製造・運用されるアンドロイド「ギフティア」が社会に溶け込んだ、近未来の日本。SAI社に就職した新入社員「水柿ツカサ」が、寿命を迎えるギフティアを回収する部署「ターミナルサービス」へ配属されるところから話は始まる。

企業というリアルな箱の中でツカサという青年が成長していく、いわば「仕事モノ」である。この手の作品で、かつSFが取り入れられており、シリアスあり、ラブコメありな作品といえば『クラスルーム・クライシス』が思い浮かぶ。

プロデューサーの鳥羽洋典氏によれば、本作も当初は「学園モノ」と「仕事モノ」の両立を目指していたという。だが、監督の藤原佳幸氏が「学園モノ」という要素をそぎ落とし、あえてSF色も強くしないことで、出会いや別れといった『人間ドラマ』を重視する作品に落ち着いたという(電撃G's Magazine、2014年11月号、2015年1月号)。


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いわゆる「ラブコメ」であっても、作品に通底するのは、ギフティアの耐用年数が約九年というシリアスな現実である。

期限を迎えたギフティアは回収されるが、「OS」を入れ直すことで新しいギフティアとして再生させることもできる。だが、そのギフティアは体は同じであっても中身は別の存在であり、記憶や人格は継承されない。第八話のエルとオリヴィア(アンディ)のエピソードで、その点ははっきりと示されている。

この作品に安易な奇跡は用意されていない。回収するギフティアに対しアイラがかけ続けた言葉は、決して叶わない「夢」である。淡い期待を抱いていたツカサも、最後にはその事実を受け入れていった。これでアイラだけが特別だったなら、この物語は一気に色あせるだろう。永遠が存在しないからこそ、過ぎていく一瞬一瞬を精一杯生きる意味が生まれる。


/ ※ /


原作・脚本の林直孝氏によれば、『プラスティック・メモリーズ』というタイトルの意味は「ギフティアの記憶」のことであり、その記憶がデジタルなものなら、それを振り返る行為も、彼らの人生でさえもデジタルなのか、という問いかけを含んでいるという(電撃G's Magazine、2014年11月号)。

確かに、アンドロイドであるギフティアの記憶は「記録」なのかもしれない。一瞬で消せてしまうデータを「記憶」と錯覚しているだけかもしれない。だが、記憶であろうと記録であろうと、ギフティアにとっては大事な「思い出」である。そしてギフティアと共に過ごした者たちにとっても、その記憶は、ギフティアたちが確かに存在したという大切な「存在証明」として、心の中に生き続ける。

エピローグでツカサが語る言葉は、彼がアイラと出会わなければ生まれなかった言葉だろう。アイラとの思い出が彼を成長させた。ギフティアとして生まれ、ギフティアとして消えていったアイラという存在にも、生まれた意味が確かにあったのだ。


/ ※ /


どうあがいても、いつか終わりはやってくる。それはギフティアだけではない。人間だって、いつかは消えてしまう。それぞれの思い出を抱え、いつかやってくる、その瞬間までをどう生きるか。少し頼もしくなったツカサの姿に、「死」が終わりではないという真摯なメッセージを感じた。

 

第七話

『これが正しいのかどうか分からない。俺のただの独りよがりかもしれない。でも俺は、アイラに、この一瞬一瞬を少しでも楽しんでもらいたいって、思うんだ』


第八話

『思い出を作れるのは、今だけなんです。今、この瞬間しかないんですよ』


第十二話

『大切な人と、いつかまた巡り会えますように・・・』


第十三話

『もし、自分の命の時間が、あらかじめ決まっていたとしたら、俺ならどう受け止めるだろう。俺は、その限られた時間を、精一杯、生きようって思う』

 


『プラスティック・メモリーズ』

放送期間:2015年4月~6月
原作・脚本:林直孝
監督:藤原佳幸
製作プロデューサー:鳥羽洋典
アニメーション制作:動画工房

 

「BLAME!」

 

「BLAME!」

 

原作が月刊アフタヌーン誌上で連載されていた1999年頃、たまたま手に取った単行本から『BLAME!』という世界を、そして弐瓶勉という漫画家を知った。第一話を読んだときの、何か分からない、すごい宝物を見つけたような衝撃は今でも覚えている。

原作が完結し、単行本を最後まで読み終わった後も、折に触れて読み返していた。本当に好きだった。だが、ここ数年は漫画自体読まなくなったこともあり、最近は『BLAME!』の記憶も薄れつつあった。そういう「昔、好きだった」という気持ちも、「時間」という波はいつしか洗い流してしまう。それを「寂しい」と見るか「仕方ない」と諦めるか・・・。

そういったこともあり、映画を見るに当たって原作を読み返すか悩んだ。だが、せっかく忘れているのなら、いっそ惚れ直すチャンスかもしれない。そう思って、今回は復習(予習?)せずに見ることを選んだ。


/ ※ /


それが良かったかどうかはともかく、たとえば瀬下寛之監督がインタビューで、

『超ハードなSFの世界観の原作から、元々内包されている普遍的な人間ドラマを浮き彫りにし、原作を知らない人、SFが苦手な人にも観てもらえるようにしました。』(パンフレット、P.16)

と語っている通り、原作を読んでいてもいなくても、結果的に、作品の理解にはそれほど問題はない内容だった。むしろ、SF的な世界観に目が行きがちな原作の中で、あえて省ける要素は省き、そこに存在する「生きようとする人間たち」に焦点を当てたのは、いい判断だったと思う。

先日、見終わった『プラスティック・メモリーズ』の鳥羽洋典プロデューサーが、インタビューの中で次のようなことを語っていた。

『むしろ、中途半端にいいとこどりをしようとするのが危ないんです。捨てる勇気は大事ですよ。ダメだと思ったら崩してしまわないと。』(電撃G's Magazine、2015年1月号)

漠然とした記憶を頼りに書くのだが、ストーリーに限って言えば、どうやら原作の忠実な映像化ではない。おそらく「電基漁師」のエピソードを軸に、初めて触れる人にも入りやすいよう、エピソードを再構成したのだろう。その原作との違いに、ファンによって色々感じるところはあると思うが、個人的には、詰め込みすぎず、いいバランスで作り直したという印象である。監督の判断もあるだろうが、原作の弐瓶勉氏が総監修として参加していることも大きかったのではないか。


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この映画はビジュアル(あるいは世界観、空気感)に関して、申し分ないほどのクオリティを誇っている。こういったコアなファンがいる作品を映像化する際、制作者には、いい意味で「変質的」なマニアックさが求められる。逆に、そうでなければ「総スカン」を食らう怖さがある。その点、この映画は「よくぞここまで・・・」という完成度であり、例えば、霧亥の顔や電基漁師の装備に細かい傷が無数にあって(パンフレットによれば『黒キズ』というらしい)、怪我の描写や、装備の使用感が出ているのは素直に感心した。

これ以上のものを作れというのは、現時点では、おそらく無理だろう。あの『BLAME!』を、この完成度で描いてくれた製作スタッフに、昔からの一ファンとして感謝しかない。パンフレットでは、弐瓶氏が続編に言及している。私としては今作だけで十分過ぎるほどだが、変に期待しすぎず、次を待ちたいと思う。


最後に、本当に些末なことを言わせてもらえれば、「サナカン」の発音が思っていたのと違ったことが、この映画で一番驚いた部分かもしれない。でも「サナカン先生」ならそうだよなぁ、とも思った。

 


『BLAME!』

公開日:2017年5月20日
原作・総監修:弐瓶勉
監督:瀬下寛之
副監督・CGスーパーバイザー:吉平“Tady”直弘
脚本:村井さだゆき
アニメーション制作:ポリゴン・ピクチュアズ
製作:東亜重工動画制作局

 

「マクロス7」

 

「マクロス7」

 

『『7』のコンセプトは「メカファンからそっぽを向かれる作品」と「空前にして絶後」であり、誰もこのあと真似をしようと思わないものを作ろうと思ったという。』


wikipedia(『マクロス7』)に載っている上記の言葉が、本作を端的に表していると思う。とにかく最初の十話は「このまま見続けるか」という悩みとの戦いだった。特に本作の前に見た『マクロスプラス』とのあまりのギャップに、かなり戸惑ったのを覚えている。

そこで、とりあえずこの作品が作られた背景だけでも知っておきたいと思い、一度中断してストーリーに触れない範囲でwikiに目を通すことにした。それによれば、原作者の河森正治氏には今作の構想の背景に、初代マクロスの劇場版『愛・おぼえていますか』の決着を銃でつけたことへの心残りがあったという。私は初代の劇場版を見てから日が浅いため、その場面も覚えている。だが「銃で終わらせた」という視点は言われるまで気づかなかった。おそらく、その構想の背景を知っているかどうかで、この作品への評価は大分変わってくるのではないかと思う。なぜなら『7』という作品は、熱気バサラという男がしつこいほどに「歌」で結着をつけようとする作品だからである。

『7』がそういった性質を持っている以上、銃や暴力で終わらない結末が用意されているだろうということは予想できたが、問題はバサラが歌うだけで戦おうとしなかった、その理由である。『愛・おぼえていますか』で輝がボドルザーを銃で倒したのは、ある意味当然な行為である。輝は統合軍の軍人で、ボドルザーは倒すべき敵だったのだから。軍人ではないとはいえ、敵前で戦わずに歌うバサラの行動こそ、常軌を逸していると言えるだろう。

作中ではバサラが歌い始めた理由として「山を動かしたかった」という彼らしい動機が明かされているが、彼にそうさせた理由も、ましてやその生い立ちでさえも描かれなかった(再現ドラマはあったが)。戦わないことについても、「撃ち合ってるだけじゃ何も解決しない」といったことを言うだけなのである。ただ、バサラが思い描いているイメージは明確だろう。彼はミンメイのように「歌」で争いを終わらせるというビジョンを持っている。武器に頼らなければ仲間を助けられない状況に陥ったり、いくら歌っても敵に届かないことに苛立ち、自ら攻撃してしまうこともあったが、それでも彼は最後まで歌うことを諦めたりはしなかった。バサラはどうしてそこまで歌を伝えることにこだわったのか。

そんなバサラというキャラクターを考える上でヒントとなりそうなのが、本編の一年後を描いたOVA『マクロス ダイナマイト7』のエンディングである。河森氏が監督・撮影等を務めたこの映像は、インドと思われる地での実写映像を背景にバサラが歌っているという、アニメ作品では珍しい手法を取っている。仮にこの場所をインドとした場合、非暴力を唱えたある人物が思い浮かぶ。「インド建国の父」とも呼ばれる、マハトマ・ガンジーである。

ガンジーは「断食」という手段でインドに吹き荒れる暴力を止めようとした人物である。手段は違えど、「非暴力」の手段で暴力を止めようとしたバサラに重なって見える。これは想像だが、バサラというキャラクターに与えられたのは「歌で暴力を止める」という、ただそれだけなのではないか。だから、バサラがどうしてそうしようと思ったのかという動機付けはあえて省き、ただ「非暴力」を貫こうとするキャラクターに収束させたのではないだろうか。『ダイナマイト7』はもっとも最後のエピソードである。そのエンディングに込められた意味は重いだろう。

戦争とは武力の衝突であり、歌で戦いを終わらせようとすること自体、荒唐無稽な考えである。第十一話で初めて戦場でバサラと歌ったミレーヌは、歌で戦争を終わらせたというミンメイの伝説は、それこそ「夢物語」なのだと悟り、バサラもそれを否定しなかった。歌うことしか考えていないように見えて、彼にも彼なりの葛藤があったのである。『7』は破天荒だが「歌」への態度は一貫しているバサラというキャラクターを通じて、「非暴力」は暴力を止められるかということについて、誠実に向き合おうとした作品だと思う。


/ ※ /


同時進行で制作されたという『7』と『プラス』は、前者は「漫画寄り」、後者は「実写寄り」と設定されていたという(wiki)。それゆえ両者は初代マクロスの世界観を受け継ぎ、可変戦闘機(バルキリー)などの情報を一部共有していても、内容的には似ても似つかない道をそれぞれ突き進む結果となったのだろう。

『マクロスⅡ』もそうだったが、『プラス』もまた初代マクロスの要素を吸い出し、それを基にして新しいマクロスの世界を模索しようとした面が強いと思う。そういった点で『Ⅱ』も『プラス』も、初代マクロスの続編ではありながら内容的にはスピンオフに近い印象を受ける。つまり両者とも初代マクロスの「設定」はあっても、その「ストーリー」は継承していなかった。それに対し『7』はマックスやミリア、エキセドルといった初代マクロスに登場した面々が再登場し、さらにミンメイが歌っている過去のシーンも幾度となく挿入され、ついには「プロトカルチャー」の核心にまで迫るなど、初代マクロスの「続き」を非常に意識した作品作りをしている。

そうやって見ると、同時に作られながら『プラス』はマクロスという世界観の可能性を広げ、『7』は初代マクロスのストーリーを深化させる、そういった方向性の棲み分けもあったように思われる。そして大事なことは、そのどちらがいいということではなく、どちらも初代マクロスの世界を押し広げるという意味で立派に続編たり得ているということである。

前述の通り『7』は意識的にコミカルに描かれている。その雰囲気は私がテレビシリーズの初代マクロスで感じた、戦争を扱っている割にはどこか暢気でコメディタッチな雰囲気に似ていると思う。まさに「明るいマクロス」である。ただ、初代マクロスには圧倒的な戦力を有するゼントラーディとの戦争があり、さらにマクロスが帰るべき「地球」という場所でさえ、一度は焦土と化している。そこには絶望的な「悲壮感」が漂っており、そのため死が身近にある印象だった。そして、だからこそ宇宙へ「文化」を広げるという人類のミッションが、希望にあふれるものに見えた。

だが『7』にはそこまでの悲壮感はない。ゲペルニッチを筆頭にしたプロトデビルンたちは確かに脅威であり、危機感も分かるが、『7』の持つ軽快な雰囲気が戦闘シーンまで緊迫感のないものにしてしまった印象があるのも確かである。私個人はそれはそれで楽しんで見ることもできたが、人によっては戦争を軽く扱っている風にも受け取れるだろう。そういった点で、見る人によって好みがはっきり分かれそうなのは想像に難くない。

思うに『7』という作品は、最初から視聴者の激しい好悪感情を計算に入れて作られたのではないか。前述のガンジーはその非暴力の姿勢で多くの共感を呼んだが、ムスリムへのすり寄りと受け取った人々からの反感も生み出した。思想を貫こうとすれば、必ずそういった反発にも突き当たるものだろう。多くの作品が人に好かれようとする中で、嫌われそうなことをあえてする作品はなかなかない。ましてやマクロスという人気作の続編で、そんな「冒険」をあえてする必要もないはずだ。そこが本当の意味で『7』の「空前絶後」な部分ではないか。


/ ※ /


作中、高圧的な軍人バートンがミンメイへの尊敬の念を口にしたり、「ミンメイマニア」を自称する千葉軍医が彼女の功績を熱く語るなど、『7』の世界でミンメイは伝説の存在として、三十五年経っても、みんなが彼女を誇りに思っていることが分かる。私はそういうシーンに、『7』の初代マクロスへの、続編という枠組みを抜きにした敬愛を感じるのである。ただ、個人的にはミンメイばかりでなく未沙について語る人もいてほしかったが・・・。

『7』は本編だけで全四十九話、番外編(全三話+劇場版)、OVA(全四話)とかなりのボリュームである。この内容をこれだけのスパンで描くことも、熱量を最後まで維持することも並大抵のことではなかっただろう。そこにはマクロスの続きを描くというプレッシャーもあったはずである。お気楽なノリとは裏腹に、込められている問題提起も重いものがある。私もまさかアニメのレビューでガンジーにまで言及することになるとは思わなかったが、そんな尖った部分も含めて『7』の魅力だと思う。最初こそどうなるか分からなかったが、清々しいほどに走りきった作品で、見終わってみて素直に「よかった」「楽しかった」と思えた。


余談だが、「花束の少女」というアイデアは非常によかった。ストーリーにまったく関わりのない、ただ花束を渡そうとするだけのキャラクターを応援したくなるような作品はなかなかないだろう。そんな遊びは許されないような雰囲気が、現在のアニメにはある。何か萎縮しているような、完璧じゃないといけないような、そんな息苦しさ。この『7』を見ていると、何かすごく暖かくなる。日本アニメにとってとても大事なものが、この作品にはあるような気がする。

 

第十話

『気持ちいいんだよ、雨が・・・もう少し、こうしていさせろよ』


第十一話

『私、分かったような気がする。リン・ミンメイの物語って、作られた伝説よ。時が過ぎていくうちに誇張されただけの、おとぎ話なのよ。いま作っているドラマのようにね』


第十六話

『忘れましたか? 私はかつて、歌によってカルチャーショックを受けたゼントラーディの人間ですよ』


第二十五話

『ミレーヌさん、悔しいが・・・バサラと歌っているあなたは、どんな時よりも輝いて見えます』


第二十九話

『音が聞こえたのではない。心が、プロトデビルンを動かした』


第三十二話

『地球を救ったあのスーパースター、リン・ミンメイでさえ、デビューした当時はただのアイドル歌手だったのだ。私は彼女が新人の時から生で見ていた。彼女は歌を重ねていくにつれて次第にパワーを発揮し始め、やがて戦争を終結させるほどのすごい歌手となったのだ。可能性は誰でもある。それを引き出すのが我々プロジェクトの使命だ。初めから諦めたような発言はするな』

『なぁ、バサラ。お前はがむしゃらに歌ってきた。だけどな、お前がどんな気持ちで歌おうと、それをどう受け止めるかは、聞いた人間の勝手だぞ。まぁ、それで納得するお前じゃないだろうが、それは事実だ。少しは考えてみてもいいかもな。何のために歌ってきたのか、何のために歌うのか』


第三十七話

『異種族の血の混じり合いし者、すなわち平和の証なり』


第四十八話

『パパ・・・私、ファイアーボンバーなの、ファイアーボンバーが生きがいなの! ここで歌わなかったら、今歌わなかったら、今まで大事にしていたことが、みんななくなっちゃうわ!』


第四十九話

『今日こそ動かしてやるぜ! 山よ、銀河よ、俺の歌を聞けぇ!』

 

 

『マクロス7』

放送期間:1994年10月16日~1995年9月24日
原作:河森正治
監督:アミノテツロー
シリーズ構成:富田祐弘
脚本:富田祐弘、大橋志吉、隅沢克之、アミノテツロー
製作:毎日放送、ビックウエスト


『マクロス7 銀河がオレを呼んでいる!』

公開日:1995年10月7日
監督:アミノテツロー
脚本:河森正治
製作:津田義夫、高梨実、春田克典
制作会社:ハルフィルムメーカー、スタジオジュニオ


『マクロス ダイナマイト7』

発表期間:1997年12月18日~1998年7月25日
原作:河森正治
監督:アミノテツロー
シリーズ構成:河森正治
脚本:富田祐弘
製作:ビックウエスト、バンダイビジュアル、毎日放送、小学館


(wikipedia:マクロス7

 

 

「超時空要塞マクロスⅡ -LOVERS AGAIN-」

 

「超時空要塞マクロスⅡ -LOVERS AGAIN-」

 

今作はテレビシリーズ『超時空要塞マクロス』誕生十周年記念として制作された。舞台は前作から八十年後であり、前作のキャラクターは登場しない。唯一「ミンメイ」という名前だけが作戦名として出てくるのみである。ただ、「マクロスⅡ」というだけあって前作の設定は各所にちりばめられている。特に「メルトランディ」の存在や、マルドゥークの使う言語から察するに、テレビシリーズというより劇場版を基点と位置づけているのではないかと思う。

内容は残念ながら微妙な出来だったと言わざるを得ないが、この短さでは無理もない気もする。前作の内容からその要素を明確にし、それを元に新たな「マクロス」を作る。目指しているところは悪くなかったのにと、もったいなく感じる。もっと長いスパンで見てみたかった。

短いストーリーだが、最終回のエンディングは良かった。ヒビキが撮影してきたイシュタルの映像が続き、最後まで残ったマクロスの司令室をバックに、シルビーとイシュタルのツーショットで終わるラストは、制作陣が「マクロスらしさ」を探求し、マクロスファンを納得させたかったという気持ちの現れのように感じられた。

 


第一話

『統合軍は無敵なんかじゃないんだ。宇宙は広い。地球が宇宙に君臨する最も優れた星だなんて考えるのは、大間違いなんだ』


『地球が最も優れた文化を持っているだと? ふざけるな! 文化が何なのかも分からなくなってやがるくせに、偉そうに言うんじゃねぇ』


第二話

『あの船ね、巨人たちに恋の歌を伝えたの』


第三話

『歌いたい、ラブソングを。マルドゥークに帰って、みんなに聞かせたい』


第四話

『私、許せなかったの。見たでしょ? あのゼントランたちを・・・。確かに、戦いのために生まれてきたのかもしれない。けど、自由を捨てたわけじゃない。人間なの。戦いの道具なんかじゃないわ』


『・・・報告します。地球統合軍バルキリー小隊、シルビー中尉。現在、敵の旗艦内に潜入。健闘空しく窮地に立っております。お世話になった方々に、もし伝わればと、この報告を、残します。・・・つまり、袋の鼠というわけ!・・・・・・ありがとう』


第五話

『私の気が変わらぬうちに行くがいい。イシュタル、あなたは反逆の罪を犯し、私に撃ち殺されたのだ。・・・所詮、生まれが違いすぎた』


『戦いで死ぬ勇気はあっても、負けると告白する勇気がない。敵は意外と近くにいるものだ』


第六話

『ここには人が住んでいた。恋の歌に満ちていたんだわ』

 

「超時空要塞マクロスⅡ -LOVERS AGAIN-」

発表期間:1992年5月21日~11月21日
監督:八谷賢一
シリーズ構成:富田祐弘
アニメーション制作:AIC、オニロ
製作:バンダイ、ビックウエスト、ヒーロー・コミュニケーションズ、毎日放送、小学館

 

「劇場版 ソードアート・オンライン -オーディナル・スケール-」

 

「劇場版 ソードアート・オンライン -オーディナル・スケール-」

 

以前も書いたが、私は、最近は「原作もの」を見ていない。だが、それでも「これだけは」と押さえておきたい作品はある。「ソードアート・オンライン」(SAO)は、その一つである。いつか原作も読んでみたいと思っているのだが、その「いつか」はいつ来るか分からない。

そんなわけで、アニメ版のことにしか触れられないのだが、この一連のシリーズは、制作陣によって丁寧に計算され、考え尽くされ、そして世界観を大事に作られていることが伝わってくる作品である。また、「仮想現実(バーチャルリアリティ)」という世界を描きながら、それでも「現実(リアル)」から足を離さない、そういうしっかりした軸足を感じられる点も、多くの人に愛される理由の一つではないかと思う。

今回、映画を見るに当たり、一話から見直すことにした。かなりの量だったが、通して見るとまた違った感触が得られ、長いとは感じなかった。映画の時系列が二期終了時の二週間後という設定や、今までのキャラクターが多かれ少なかれ登場していること、何よりアスナが「SAO」時代の記憶を失うことの重さを感じられたという点でも、見直しておいてよかったと思っている。もし映画を見る前に、ネタバレを承知でこの文章を読んで頂いている方には、今からでもテレビシリーズを見直すことを、是非お勧めしたい。

私は、テレビシリーズの中では、最も新しいエピソードの「マザーズ・ロザリオ」編が、特に好きだった。なので、絶対に描いてくれると思っていたシーンが、やっぱり訪れたとき、たった数秒の場面ではあったが、不覚にも少し泣いてしまった。エギル役の安元さんがパンフレットのインタビューでも語っているが、『「SAO」を1期、2期ともに愛してくださっている方であれば絶対に喜ぶような内容』になっているのは、間違いないと思う。

サブタイトルの「ORDINAL SCALE」(OS)は「SAO」や「GGO」と同じくゲームの名前であり、「ORDINAL」には「序数」という意味があるそうだ。「SAO」に対し、「OS」は序数で設計されている、というような話が作中に出てくるのだが、残念ながら私には理解の及ばないところの話である。さらに言えば、実は、私は「ORDINAL」という単語の意味さえ知らず、「普通の」「平凡な」といった意味の「ORDINARY」に近い言葉だと思っていた。なので、映画を見終わり、エイジやユナのことを考えたとき、キリトたちと同じく「SAO」という世界に閉じ込められながら、最前線で派手に戦ったりしなかった人々もたくさんいて、彼らにも自分たちの「SCALE(尺度)」があったという意味も含まれていたのだろうかと思ったりもした。私の勘違いに過ぎないのだが、そう考えてみるのも面白いのではないだろうか。

これからの「VR」「AR」が普及するであろう社会を考える上で、示唆に富む作品である。テレビシリーズ同様、期待に違わない完成度の高さだった。

 

『劇場版 ソードアート・オンライン -オーディナル・スケール-』

公開日:2017年2月18日(土)
原作:川原礫
監督:伊藤智彦
脚本:川原礫、伊藤智彦
制作:A-1 Pictures
製作:SAO MOVIE project

 

「超時空要塞マクロス 愛・おぼえていますか」

 

「超時空要塞マクロス 愛・おぼえていますか」

 


テレビシリーズ 「超時空要塞マクロス」の第二十七話までを再構成した劇場作品。ただの焼き直しではなく、細かい点は踏襲しつつも大胆に作り直している。

テレビシリーズと比べ、設定には若干の変化がある。たとえば、マクロスが地球を飛び立ってから五ヶ月が経っているが、輝とミンメイは出会っていなかったり、ゼントラーディが監察軍ではなくメルトランディ(ラプラミズやミリアら女性陣)と敵対したりしている。また、テレビシリーズよりもリアリティを増した分、死が近くなった印象である。ショッキングな描写も増えた。

wikiを読む限り、テレビシリーズは全三十九話予定だったものが二十七話に圧縮され、さらにスポンサーの都合で三十六話に延長した背景があったという。確かに、第二十七話が最終回だったと言われても違和感はなく、それ以降は後付けと見てもいいように思われる。そのためか、テレビシリーズの最終回は、どこかすっきりしない終わりだと感じていた。ミンメイが身を引いた形ではあったが、では、輝は未沙をはっきり選んだのかというと、私にはそうとも受け取れなかった。その点、劇場版では、輝は未沙を、ミンメイは歌をそれぞれ選び取るという明確な形で終わったのは良かったと思う。それこそまさに第二十七話の再現でもあるだろう。

劇場版で描きたかったものは何だろうかと考える。ゼントラーディら巨人も、地球人類も、遺伝子レベルでは同じという設定は変わっていない。テレビシリーズより強調されていると感じたのは、「男と女がいる意味」である。

プロトカルチャーは、自らの遺伝子工学によって、男は男、女は女で子孫を残せるようになった。その結果、男と女の交わりがなくなり、やがて、両者はいがみ合うようになる。これがゼントラーディとメルトランディの戦争の発端なのだが、裏を返せば、プロトカルチャーたちは、元は男女が共存する社会を持つ人々だったのである。

男女が争うことの間違いに気付いた一部のプロトカルチャーは、拡大する戦火から逃れ、地球にたどり着いた。そして、再び男女が愛する世界を構築するため、地球人類を「作り出した」のである。プロトカルチャーが地球人類に求めた、「男女が愛し合う」世界は、彼らが地球を離れてから二万年経っても、変わらず存在し続けることになる。「歌」を含め、さまざまな文化を「愛」から生み出しながら。

プロトカルチャーが残した「都市」で未沙が見つけたプレートは、ゼントラーディの司令ボドルザーが所持していたプレートと合わせることにより、一つの歌となって形を為す。女性の未沙と男性のボドルザー、両者の持つプレートによってよみがえった歌が、プロトカルチャーたちの「ラブソング」だったことは、示唆的である。

プロトカルチャーたちにも「歌」という文化があり、人類と同様に、彼らもまた歌に心を揺り動かされていたのだろう。ミンメイの歌う大昔のラブソングによって、ついに人類とゼントラーディとの戦争に一応の終止符が打たれることになる。歌という「文化」が戦争さえ駆逐するという、テレビシリーズでも描かれたテーマは、ここでもはっきりと描き出された。

「愛・おぼえていますか」というフレーズは、一目見ただけで、ずっと頭に残るようなインパクトがあり、見終わってみれば、「愛」というテーマはすでに示されていたことに気付かされる。そして、輝と未沙がプロトカルチャーの家で食事の真似をするシーンは、たとえ何万年経とうとも、文化は文化のまま、愛は愛のままだというメッセージが込められた、象徴的な一幕だったと思う。

信じられないほどの名作であり、見終わって思わず息を吐いた。そして、「あぁ、未沙よかったな」と、つくづく思った。

 

『超時空要塞マクロス 愛・おぼえていますか』

公開日:1984年7月21日
監督:石黒昇、河森正治
脚本:富田祐弘
製作:井上明、岩田弘、榎本恒幸
製作会社:ビックウエスト、毎日放送、タツノコプロ、小学館

 

「超時空要塞マクロス」

 

「超時空要塞マクロス」

 

いわゆる「ロボットアニメ」はエヴァンゲリオンが入り口だったが、その後も特にロボットものに惹かれることはなかったため、一世代前のガンダムやマクロスに興味が向かうこともなかった。ただ、最近は新作というより数年~数十年前のアニメを掘り起こすことに興味が向いており、このタイミングでロボットものの原点とでもいうべき作品に手を付けるのもいいかと思った。

マクロスを選んだのは、「マクロスフロンティア」のテレビシリーズを一から見たかったためである。というのも、私がマクロスシリーズで見たことがあったのは劇場版のフロンティアだけであり、高いクオリティながら、テレビシリーズのエピソードをだいぶ削ぎ落としているような印象があったのを残念に思っていた。劇場版の常と言ってしまえば、それまでだが・・・。かといって、劇場版のすぐあとにテレビシリーズを見返す気にもなれず、少し時間をおいた今、初代マクロスから一通り見てフロンティアにたどり着くのも面白いのではないかと思ったのである。

また、これは偶然なのだが、放送開始の1982年は私が生まれた年でもある。どこか運命的なものを感じたりはしなかったが、同い年ということで、いろいろ思うところもあったりした。年月とは恐ろしいものである、などなど・・・。

なお、この文章を書いている時点で初代マクロスはテレビシリーズから劇場版まで見終わっているが、両者は似て非なるものであり、ここではテレビシリーズについて触れることとし、劇場版については改めて感想を書こうと思う。

/ ※ /

そんなわけで、初代マクロスである。見る前は何となく固いイメージがあり、ひたすら戦争の悲哀を描くような話かと思っていた。なので「古き良き」という言葉が似合うような(実際、古いのだが)、どこか暢気というか牧歌的なところがあり、たまにコメディもあるような雰囲気は意外だった。もちろん戦争を扱っている作品であり、シリアスな展開も多い。登場人物たちはみな、死ぬことと真剣に向き合っている。だが、そういう悲哀さをもってしても作品を暗くしていないのは、人類の持つ「文化」、そしてそれに触発される「感情」が争いさえも駆逐するという、前向きなメッセージが込められているからではないだろうか。

作中、ゼントラーディが敵対する人類を「プロトカルチャー」と恐れたのは、例えば歌であったりキスであったり、要するに「動作」に過ぎない。彼らはその動作をもって「文化」と呼んでいた。それゆえに、文化に触れることによって起こる感情(例えば歌を聴いて感動することなど)まで正しく認識できず、ただ漠然としたインパクトを与える「文化」というものに恐れを抱いたのだ。

物語が進むうち、実はゼントラーディも人類も、遺伝子的には同じであるという事実が分かる。だが、まったく異なる時間を生きてきた両者である。ゼントラーディに至っては最初から「文化」を与えられておらず、戦うことがアイデンティティとなってしまっている。そんな、人類とは「異種族」であるゼントラーディが、人類の文化に感化され、感情を芽生えさせるという奇跡。それこそがこの作品が描きたかった最大のテーマではないか。そして、それゆえにメッセージ性の高い作品となり、多くの人間に影響を与え、今日に至るまで愛され続ける結果となったのではないか。

感情という点で見れば、男女の恋愛もテーマの一つだろう。マックスとミリアの展開には思わず笑ってしまったが、このノリが作品の良さでもある。輝と未沙の関係にもやきもきさせられ、特に未沙に対する輝の態度には納得いかない部分も多々あったが、ミンメイも含めた三角関係は作品を魅力的にしていたと思う。特に第二十七話は印象深かった。戦火にまみれる地球を背景にした輝とミンメイのキスシーンも幻想的だったが、私が特に印象深く感じたのは、統合軍司令部の地下にひとり残された未沙が、助けに来た輝と抱き合うシーンである。モノクロでありながらとても温かく感じられ、ミンメイの「愛は流れる」も相まって非常に印象的だった。

また、この作品は歴史上で絶え間なく存在してきた、戦争に巻き込まれる民間人の悲哀にも目を向けている。「突如として争いに巻き込まれ、住む場所を追われて漂流する民」。こう書けば、そのまま現在の難民の姿に重なるだろう。作中では淡々と描かれたが、マクロス内の住民は死んだものとして扱われ、地球への帰還も拒否される。その後、地球そのものが壊滅状態となり、マクロスの乗員が目指した「帰る場所」そのものが失われたのは、皮肉というほかない。そして、生き残った人々が再び地球で生活を営み始める中、地球の文化を絶やさないためにグローバルが出した結論、それが「宇宙への移民」だったのである。

いくら文化が発達しても争いはなくならないのか。文化では戦争をなくすことはできないのか。そんな諦めに似た疑問を投げかけつつも、この作品が卑屈になっていないのは、文化があれば、愛があれば分かり合える、分かり合えれば争いもなくなるという、明快でポジティブなメッセージが含まれているからだろう。そんな単純な話ではないと言うのは簡単である。だが、作品で理想や価値観を語らないで何を語るのか。最近のアニメが「軽く」なってしまったのは、世界観やキャラクターを型にはめることばかり考えて、人の感情の揺れ動きを丁寧に追わなくなり、当たり障りのない範囲から出ようとしなくなったからではないか。本当に描きたいものを、描くべきものを、省くようになったからではないか。効率という名の下に。

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さすがに三十年以上経っており、wikiを読み通すだけでも苦労する。今後のエピソードに関わる部分は慎重に避けつつも、久しぶりに記事を読むのが楽しい。特に、当時の制作事情は相当苦しかったことがうかがえる反面、その対策としての苦肉の策が成功するなどの皮肉なエピソードは興味をそそる。そして、そんなテレビシリーズの苦労(鬱憤?)が劇場版のクオリティに結実したことを考えれば、産みの苦しみがあったればこそだろうと思う。

見終わってみて、遅まきながらマクロスがいまだに愛されている理由を知った思いである。古くなっても色あせない魅力が、この作品にはある。

 

第四話

『宇宙でマグロを釣った人なんて滅多にいないわよ』

第五話

『地球をどんなに遠く離れたって、宇宙船の中だって、この街は私たちの街じゃない。今までと同じことをやるのよ』

第六話

『戦闘機同士の戦いでは、平然と引き金を引ける自分。輝は、心の片隅が、徐々にではあるが乾いてきているのを感じていた』

第八話

『一条輝にとって思いがけず手にした勲章よりも、ミンメイの喜ぶ顔が、そして自分がその笑顔を与えたことの方が嬉しかった』

第十一話

『宇宙は戦いで満ちあふれ、戦いのあるところにこそ命があるはずだ』

第十四話

『マクロスとは我々にとって、何なんだろう』

第十六話

『戦いは、何も生み出しません』

『一体、何機落とせば敵は来なくなるんですかね? 十万機ですか、百万機ですか!』

第十九話

『一度も撃墜されたことがないっていつも自慢してたのに、機体だけ残して逝っちまうなんてな・・・』


「あいつ、戦争をやめろって言ってる」

「戦争をやめろっていうことは、生きる目的を否定する恐ろしい考えなのに・・・」

「だけど、なんとなく分かるような気も・・・するな」

『どんなにやめたくても、やめられないことだってあるのにね』

第二十話


「あたしたちは死んだことになってるんだって」

「へぇ、じゃ、どこの国でもない幽霊市民ってこと?」

「それでもいいんじゃない? あたしたち、この船に慣れちゃったんだもん」

「マクロス人だもんな」

『皆さん、私は政治とか軍隊のことは分かりません。だけど、ここはずっと私たちが暮らしてきたところです。私たちは、みんな仲間でしょう? マクロスには、私たちの街もあります。これまでだってやってこれたんだもの・・・。きっと、これからだってできます!』

第二十一話

『いいんだよ。こんな生活、好きな人でもいなくちゃやっていけないよ』


「俺たち、これからどうすりゃいいのかね・・・」

「今日を精一杯生きる、それしかないんじゃない?」

「・・・そんなもんかな」

「そんなもんよ」

第二十二話

『俺はミンメイを守るために戦えばいいんだ。それだけでいい、それだけでいいんだ。ここから逃げられないんだったら、それだけでいい』

第二十三話

『ちゃんと口にしないで、分かってもらおうなんて虫が良すぎるわ』

第二十四話

『お礼を言うの、こっちの方だよ。あんたのおかげで、今までずいぶん助けられたしね。今までずいぶん文句言ったけどさ、あんたの管制指示、大したもんだよ』

『キクンノ  モクテキノ  タッセイト  マクロスヘノ  ブジ キカンヲ  イノル  イチジョウ  ヒカル』


「軍人の血を受け継いだお前が今さら理想だけで平和を語ろうという・・・。お前の乗ったシャトルを襲った連中は、和平の呼びかけに応じたかね?」

「血液型や遺伝子構造が同じであろうと、所詮は異星人同士。たやすく分かり合えるわけはない」

「未沙、同じ地球人がたった一つの統合政府を作るのに何千年間戦争を続けたと思うんだ」

『身近に居すぎるから、分からないってことがよくあるのよ? だから、心を許して、わがままな言い合いでケンカになる。でも、心の底では違うの。私とロイの時もそうだった・・・。そんな人、滅多に見つかるもんじゃないわ。言いたかったのはそれだけ』

第二十五話


「彼らはそれを “愛” と呼んでおります」

「・・・”愛”?」

「はい。奴らの社会生活の中で、なくてはならない人の心だとか」

『かつて我々地球人は長きにわたって争いを体験しました。言葉、肌の色、イデオロギー、宗教・・・そのほか、あらゆる困難を乗り越えて、今ようやく地球に平和の兆しをもたらせたのです。それができた私たちだ! ゼントラーディの人々に対しても同じではないだろうか? 宇宙に平和を! それこそ、我々の使命ではないか』

『愛があれば、星の違いなど関わりがないか』(言葉尻が不正確)

第二十六話

『いにしえに、プロトカルチャーと出会った者は、歌の、つまり文化に目覚めて戦いの意志を衰えさせ、そして滅んだのだ』

『我々ゼントラーディ人にとって戦いは命であり、戦うことにより歴史が積み重ねられてきた。しかし今また、文化というものに触れた我が兵士たちは、カルチャーショックで戦闘を拒否し始めたのです』

第二十七話

『おかしなもんだね・・・この小さなマクロスの中で、僕らの住む世界がこんなに違うなんてさ』

『それでもいいんじゃない? ひとりぼっちじゃないんだから』

第二十九話

『私、いったい何のために歌っているのかしら・・・』

『文化なんてモンにみんな浮かれやがって。どうせ一時的な熱狂に過ぎねぇ』

第三十一話

『我々はプロトカルチャーによって作られた、悪魔の人形なのだ・・・』

『文明がどれだけ進歩したとしても、戦争はなくなりますまい! プロトカルチャー人がたどった道のようにです。我々だけではない。あなたがたでさえ、戦争からは逃れられないのです』

第三十三話


「分からないものね、人の縁って・・・」

「人の心もね」

第三十四話

『君の歌に、人を想う優しさがあれば、君は本物の歌手になれる』

第三十五話

『誰だって似たようなもんさ。みんな毎日、いろんな物をポロポロ落としながら生活してるんだ』

第三十六話


「この地球の文化を絶やさぬためにも、宇宙への移民を始めようと思う」

「・・・宇宙移民」

「そう・・・可能な限り早く、可能な限り多くの星へだ」


「ミンメイさん、あなたは一体、誰のために歌を歌うの?」

「自分のため? それとも・・・あなたの歌を愛してくれる人たちのためじゃなくって?」

「あたしたちが戦いに行くのも、あなたが歌を歌うことと同じ理由なのよ」

『もう、歌をやめるなんて言わない』


「それがいつになるかは分からないけど・・・私が、本当の自分の歌を歌えるようになったら、その時は・・・」

「・・・その時は・・・」

「私も、乗せていただけますか? あなたの船に」

「よろこんで。そして、あなたの歌をこの宇宙いっぱいに響き渡らせましょう」

 

『超時空要塞マクロス』

放送期間:1982年10月~1983年6月
原作:スタジオぬえ、アートランド(原作協力)
シリーズディレクター:石黒昇
シリーズ構成:松崎健一
製作:毎日放送、タツノコプロ、アニメフレンド