「BLAME!」

 

「BLAME!」

 

原作が月刊アフタヌーン誌上で連載されていた1999年頃、たまたま手に取った単行本から『BLAME!』という世界を、そして弐瓶勉という漫画家を知った。第一話を読んだときの、何か分からない、すごい宝物を見つけたような衝撃は今でも覚えている。

原作が完結し、単行本を最後まで読み終わった後も、折に触れて読み返していた。本当に好きだった。だが、ここ数年は漫画自体読まなくなったこともあり、最近は『BLAME!』の記憶も薄れつつあった。そういう「昔、好きだった」という気持ちも、「時間」という波はいつしか洗い流してしまう。それを「寂しい」と見るか「仕方ない」と諦めるか・・・。

そういったこともあり、映画を見るに当たって原作を読み返すか悩んだ。だが、せっかく忘れているのなら、いっそ惚れ直すチャンスかもしれない。そう思って、今回は復習(予習?)せずに見ることを選んだ。


/ ※ /


それが良かったかどうかはともかく、たとえば瀬下寛之監督がインタビューで、

『超ハードなSFの世界観の原作から、元々内包されている普遍的な人間ドラマを浮き彫りにし、原作を知らない人、SFが苦手な人にも観てもらえるようにしました。』(パンフレット、P.16)

と語っている通り、原作を読んでいてもいなくても、結果的に、作品の理解にはそれほど問題はない内容だった。むしろ、SF的な世界観に目が行きがちな原作の中で、あえて省ける要素は省き、そこに存在する「生きようとする人間たち」に焦点を当てたのは、いい判断だったと思う。

先日、見終わった『プラスティック・メモリーズ』の鳥羽洋典プロデューサーが、インタビューの中で次のようなことを語っていた。

『むしろ、中途半端にいいとこどりをしようとするのが危ないんです。捨てる勇気は大事ですよ。ダメだと思ったら崩してしまわないと。』(電撃G's Magazine、2015年1月号)

漠然とした記憶を頼りに書くのだが、ストーリーに限って言えば、どうやら原作の忠実な映像化ではない。おそらく「電基漁師」のエピソードを軸に、初めて触れる人にも入りやすいよう、エピソードを再構成したのだろう。その原作との違いに、ファンによって色々感じるところはあると思うが、個人的には、詰め込みすぎず、いいバランスで作り直したという印象である。監督の判断もあるだろうが、原作の弐瓶勉氏が総監修として参加していることも大きかったのではないか。


/ ※ /


この映画はビジュアル(あるいは世界観、空気感)に関して、申し分ないほどのクオリティを誇っている。こういったコアなファンがいる作品を映像化する際、制作者には、いい意味で「変質的」なマニアックさが求められる。逆に、そうでなければ「総スカン」を食らう怖さがある。その点、この映画は「よくぞここまで・・・」という完成度であり、例えば、霧亥の顔や電基漁師の装備に細かい傷が無数にあって(パンフレットによれば『黒キズ』というらしい)、怪我の描写や、装備の使用感が出ているのは素直に感心した。

これ以上のものを作れというのは、現時点では、おそらく無理だろう。あの『BLAME!』を、この完成度で描いてくれた製作スタッフに、昔からの一ファンとして感謝しかない。パンフレットでは、弐瓶氏が続編に言及している。私としては今作だけで十分過ぎるほどだが、変に期待しすぎず、次を待ちたいと思う。


最後に、本当に些末なことを言わせてもらえれば、「サナカン」の発音が思っていたのと違ったことが、この映画で一番驚いた部分かもしれない。でも「サナカン先生」ならそうだよなぁ、とも思った。

 


『BLAME!』

公開日:2017年5月20日
原作・総監修:弐瓶勉
監督:瀬下寛之
副監督・CGスーパーバイザー:吉平“Tady”直弘
脚本:村井さだゆき
アニメーション制作:ポリゴン・ピクチュアズ
製作:東亜重工動画制作局

 

「マクロス7」

 

「マクロス7」

 

『『7』のコンセプトは「メカファンからそっぽを向かれる作品」と「空前にして絶後」であり、誰もこのあと真似をしようと思わないものを作ろうと思ったという。』


wikipedia(『マクロス7』)に載っている上記の言葉が、本作を端的に表していると思う。とにかく最初の十話は「このまま見続けるか」という悩みとの戦いだった。特に本作の前に見た『マクロスプラス』とのあまりのギャップに、かなり戸惑ったのを覚えている。

そこで、とりあえずこの作品が作られた背景だけでも知っておきたいと思い、一度中断してストーリーに触れない範囲でwikiに目を通すことにした。それによれば、原作者の河森正治氏には今作の構想の背景に、初代マクロスの劇場版『愛・おぼえていますか』の決着を銃でつけたことへの心残りがあったという。私は初代の劇場版を見てから日が浅いため、その場面も覚えている。だが「銃で終わらせた」という視点は言われるまで気づかなかった。おそらく、その構想の背景を知っているかどうかで、この作品への評価は大分変わってくるのではないかと思う。なぜなら『7』という作品は、熱気バサラという男がしつこいほどに「歌」で結着をつけようとする作品だからである。

『7』がそういった性質を持っている以上、銃や暴力で終わらない結末が用意されているだろうということは予想できたが、問題はバサラが歌うだけで戦おうとしなかった、その理由である。『愛・おぼえていますか』で輝がボドルザーを銃で倒したのは、ある意味当然な行為である。輝は統合軍の軍人で、ボドルザーは倒すべき敵だったのだから。軍人ではないとはいえ、敵前で戦わずに歌うバサラの行動こそ、常軌を逸していると言えるだろう。

作中ではバサラが歌い始めた理由として「山を動かしたかった」という彼らしい動機が明かされているが、彼にそうさせた理由も、ましてやその生い立ちでさえも描かれなかった(再現ドラマはあったが)。戦わないことについても、「撃ち合ってるだけじゃ何も解決しない」といったことを言うだけなのである。ただ、バサラが思い描いているイメージは明確だろう。彼はミンメイのように「歌」で争いを終わらせるというビジョンを持っている。武器に頼らなければ仲間を助けられない状況に陥ったり、いくら歌っても敵に届かないことに苛立ち、自ら攻撃してしまうこともあったが、それでも彼は最後まで歌うことを諦めたりはしなかった。バサラはどうしてそこまで歌を伝えることにこだわったのか。

そんなバサラというキャラクターを考える上でヒントとなりそうなのが、本編の一年後を描いたOVA『マクロス ダイナマイト7』のエンディングである。河森氏が監督・撮影等を務めたこの映像は、インドと思われる地での実写映像を背景にバサラが歌っているという、アニメ作品では珍しい手法を取っている。仮にこの場所をインドとした場合、非暴力を唱えたある人物が思い浮かぶ。「インド建国の父」とも呼ばれる、マハトマ・ガンジーである。

ガンジーは「断食」という手段でインドに吹き荒れる暴力を止めようとした人物である。手段は違えど、「非暴力」の手段で暴力を止めようとしたバサラに重なって見える。これは想像だが、バサラというキャラクターに与えられたのは「歌で暴力を止める」という、ただそれだけなのではないか。だから、バサラがどうしてそうしようと思ったのかという動機付けはあえて省き、ただ「非暴力」を貫こうとするキャラクターに収束させたのではないだろうか。『ダイナマイト7』はもっとも最後のエピソードである。そのエンディングに込められた意味は重いだろう。

戦争とは武力の衝突であり、歌で戦いを終わらせようとすること自体、荒唐無稽な考えである。第十一話で初めて戦場でバサラと歌ったミレーヌは、歌で戦争を終わらせたというミンメイの伝説は、それこそ「夢物語」なのだと悟り、バサラもそれを否定しなかった。歌うことしか考えていないように見えて、彼にも彼なりの葛藤があったのである。『7』は破天荒だが「歌」への態度は一貫しているバサラというキャラクターを通じて、「非暴力」は暴力を止められるかということについて、誠実に向き合おうとした作品だと思う。


/ ※ /


同時進行で制作されたという『7』と『プラス』は、前者は「漫画寄り」、後者は「実写寄り」と設定されていたという(wiki)。それゆえ両者は初代マクロスの世界観を受け継ぎ、可変戦闘機(バルキリー)などの情報を一部共有していても、内容的には似ても似つかない道をそれぞれ突き進む結果となったのだろう。

『マクロスⅡ』もそうだったが、『プラス』もまた初代マクロスの要素を吸い出し、それを基にして新しいマクロスの世界を模索しようとした面が強いと思う。そういった点で『Ⅱ』も『プラス』も、初代マクロスの続編ではありながら内容的にはスピンオフに近い印象を受ける。つまり両者とも初代マクロスの「設定」はあっても、その「ストーリー」は継承していなかった。それに対し『7』はマックスやミリア、エキセドルといった初代マクロスに登場した面々が再登場し、さらにミンメイが歌っている過去のシーンも幾度となく挿入され、ついには「プロトカルチャー」の核心にまで迫るなど、初代マクロスの「続き」を非常に意識した作品作りをしている。

そうやって見ると、同時に作られながら『プラス』はマクロスという世界観の可能性を広げ、『7』は初代マクロスのストーリーを深化させる、そういった方向性の棲み分けもあったように思われる。そして大事なことは、そのどちらがいいということではなく、どちらも初代マクロスの世界を押し広げるという意味で立派に続編たり得ているということである。

前述の通り『7』は意識的にコミカルに描かれている。その雰囲気は私がテレビシリーズの初代マクロスで感じた、戦争を扱っている割にはどこか暢気でコメディタッチな雰囲気に似ていると思う。まさに「明るいマクロス」である。ただ、初代マクロスには圧倒的な戦力を有するゼントラーディとの戦争があり、さらにマクロスが帰るべき「地球」という場所でさえ、一度は焦土と化している。そこには絶望的な「悲壮感」が漂っており、そのため死が身近にある印象だった。そして、だからこそ宇宙へ「文化」を広げるという人類のミッションが、希望にあふれるものに見えた。

だが『7』にはそこまでの悲壮感はない。ゲペルニッチを筆頭にしたプロトデビルンたちは確かに脅威であり、危機感も分かるが、『7』の持つ軽快な雰囲気が戦闘シーンまで緊迫感のないものにしてしまった印象があるのも確かである。私個人はそれはそれで楽しんで見ることもできたが、人によっては戦争を軽く扱っている風にも受け取れるだろう。そういった点で、見る人によって好みがはっきり分かれそうなのは想像に難くない。

思うに『7』という作品は、最初から視聴者の激しい好悪感情を計算に入れて作られたのではないか。前述のガンジーはその非暴力の姿勢で多くの共感を呼んだが、ムスリムへのすり寄りと受け取った人々からの反感も生み出した。思想を貫こうとすれば、必ずそういった反発にも突き当たるものだろう。多くの作品が人に好かれようとする中で、嫌われそうなことをあえてする作品はなかなかない。ましてやマクロスという人気作の続編で、そんな「冒険」をあえてする必要もないはずだ。そこが本当の意味で『7』の「空前絶後」な部分ではないか。


/ ※ /


作中、高圧的な軍人バートンがミンメイへの尊敬の念を口にしたり、「ミンメイマニア」を自称する千葉軍医が彼女の功績を熱く語るなど、『7』の世界でミンメイは伝説の存在として、三十五年経っても、みんなが彼女を誇りに思っていることが分かる。私はそういうシーンに、『7』の初代マクロスへの、続編という枠組みを抜きにした敬愛を感じるのである。ただ、個人的にはミンメイばかりでなく未沙について語る人もいてほしかったが・・・。

『7』は本編だけで全四十九話、番外編(全三話+劇場版)、OVA(全四話)とかなりのボリュームである。この内容をこれだけのスパンで描くことも、熱量を最後まで維持することも並大抵のことではなかっただろう。そこにはマクロスの続きを描くというプレッシャーもあったはずである。お気楽なノリとは裏腹に、込められている問題提起も重いものがある。私もまさかアニメのレビューでガンジーにまで言及することになるとは思わなかったが、そんな尖った部分も含めて『7』の魅力だと思う。最初こそどうなるか分からなかったが、清々しいほどに走りきった作品で、見終わってみて素直に「よかった」「楽しかった」と思えた。


余談だが、「花束の少女」というアイデアは非常によかった。ストーリーにまったく関わりのない、ただ花束を渡そうとするだけのキャラクターを応援したくなるような作品はなかなかないだろう。そんな遊びは許されないような雰囲気が、現在のアニメにはある。何か萎縮しているような、完璧じゃないといけないような、そんな息苦しさ。この『7』を見ていると、何かすごく暖かくなる。日本アニメにとってとても大事なものが、この作品にはあるような気がする。

 

第十話

『気持ちいいんだよ、雨が・・・もう少し、こうしていさせろよ』


第十一話

『私、分かったような気がする。リン・ミンメイの物語って、作られた伝説よ。時が過ぎていくうちに誇張されただけの、おとぎ話なのよ。いま作っているドラマのようにね』


第十六話

『忘れましたか? 私はかつて、歌によってカルチャーショックを受けたゼントラーディの人間ですよ』


第二十五話

『ミレーヌさん、悔しいが・・・バサラと歌っているあなたは、どんな時よりも輝いて見えます』


第二十九話

『音が聞こえたのではない。心が、プロトデビルンを動かした』


第三十二話

『地球を救ったあのスーパースター、リン・ミンメイでさえ、デビューした当時はただのアイドル歌手だったのだ。私は彼女が新人の時から生で見ていた。彼女は歌を重ねていくにつれて次第にパワーを発揮し始め、やがて戦争を終結させるほどのすごい歌手となったのだ。可能性は誰でもある。それを引き出すのが我々プロジェクトの使命だ。初めから諦めたような発言はするな』

『なぁ、バサラ。お前はがむしゃらに歌ってきた。だけどな、お前がどんな気持ちで歌おうと、それをどう受け止めるかは、聞いた人間の勝手だぞ。まぁ、それで納得するお前じゃないだろうが、それは事実だ。少しは考えてみてもいいかもな。何のために歌ってきたのか、何のために歌うのか』


第三十七話

『異種族の血の混じり合いし者、すなわち平和の証なり』


第四十八話

『パパ・・・私、ファイアーボンバーなの、ファイアーボンバーが生きがいなの! ここで歌わなかったら、今歌わなかったら、今まで大事にしていたことが、みんななくなっちゃうわ!』


第四十九話

『今日こそ動かしてやるぜ! 山よ、銀河よ、俺の歌を聞けぇ!』

 

 

『マクロス7』

放送期間:1994年10月16日~1995年9月24日
原作:河森正治
監督:アミノテツロー
シリーズ構成:富田祐弘
脚本:富田祐弘、大橋志吉、隅沢克之、アミノテツロー
製作:毎日放送、ビックウエスト


『マクロス7 銀河がオレを呼んでいる!』

公開日:1995年10月7日
監督:アミノテツロー
脚本:河森正治
製作:津田義夫、高梨実、春田克典
制作会社:ハルフィルムメーカー、スタジオジュニオ


『マクロス ダイナマイト7』

発表期間:1997年12月18日~1998年7月25日
原作:河森正治
監督:アミノテツロー
シリーズ構成:河森正治
脚本:富田祐弘
製作:ビックウエスト、バンダイビジュアル、毎日放送、小学館


(wikipedia:マクロス7

 

 

「超時空要塞マクロスⅡ -LOVERS AGAIN-」

 

「超時空要塞マクロスⅡ -LOVERS AGAIN-」

 

今作はテレビシリーズ『超時空要塞マクロス』誕生十周年記念として制作された。舞台は前作から八十年後であり、前作のキャラクターは登場しない。唯一「ミンメイ」という名前だけが作戦名として出てくるのみである。ただ、「マクロスⅡ」というだけあって前作の設定は各所にちりばめられている。特に「メルトランディ」の存在や、マルドゥークの使う言語から察するに、テレビシリーズというより劇場版を基点と位置づけているのではないかと思う。

内容は残念ながら微妙な出来だったと言わざるを得ないが、この短さでは無理もない気もする。前作の内容からその要素を明確にし、それを元に新たな「マクロス」を作る。目指しているところは悪くなかったのにと、もったいなく感じる。もっと長いスパンで見てみたかった。

短いストーリーだが、最終回のエンディングは良かった。ヒビキが撮影してきたイシュタルの映像が続き、最後まで残ったマクロスの司令室をバックに、シルビーとイシュタルのツーショットで終わるラストは、制作陣が「マクロスらしさ」を探求し、マクロスファンを納得させたかったという気持ちの現れのように感じられた。

 


第一話

『統合軍は無敵なんかじゃないんだ。宇宙は広い。地球が宇宙に君臨する最も優れた星だなんて考えるのは、大間違いなんだ』


『地球が最も優れた文化を持っているだと? ふざけるな! 文化が何なのかも分からなくなってやがるくせに、偉そうに言うんじゃねぇ』


第二話

『あの船ね、巨人たちに恋の歌を伝えたの』


第三話

『歌いたい、ラブソングを。マルドゥークに帰って、みんなに聞かせたい』


第四話

『私、許せなかったの。見たでしょ? あのゼントランたちを・・・。確かに、戦いのために生まれてきたのかもしれない。けど、自由を捨てたわけじゃない。人間なの。戦いの道具なんかじゃないわ』


『・・・報告します。地球統合軍バルキリー小隊、シルビー中尉。現在、敵の旗艦内に潜入。健闘空しく窮地に立っております。お世話になった方々に、もし伝わればと、この報告を、残します。・・・つまり、袋の鼠というわけ!・・・・・・ありがとう』


第五話

『私の気が変わらぬうちに行くがいい。イシュタル、あなたは反逆の罪を犯し、私に撃ち殺されたのだ。・・・所詮、生まれが違いすぎた』


『戦いで死ぬ勇気はあっても、負けると告白する勇気がない。敵は意外と近くにいるものだ』


第六話

『ここには人が住んでいた。恋の歌に満ちていたんだわ』

 

「超時空要塞マクロスⅡ -LOVERS AGAIN-」

発表期間:1992年5月21日~11月21日
監督:八谷賢一
シリーズ構成:富田祐弘
アニメーション制作:AIC、オニロ
製作:バンダイ、ビックウエスト、ヒーロー・コミュニケーションズ、毎日放送、小学館

 

「劇場版 ソードアート・オンライン -オーディナル・スケール-」

 

「劇場版 ソードアート・オンライン -オーディナル・スケール-」

 

以前も書いたが、私は、最近は「原作もの」を見ていない。だが、それでも「これだけは」と押さえておきたい作品はある。「ソードアート・オンライン」(SAO)は、その一つである。いつか原作も読んでみたいと思っているのだが、その「いつか」はいつ来るか分からない。

そんなわけで、アニメ版のことにしか触れられないのだが、この一連のシリーズは、制作陣によって丁寧に計算され、考え尽くされ、そして世界観を大事に作られていることが伝わってくる作品である。また、「仮想現実(バーチャルリアリティ)」という世界を描きながら、それでも「現実(リアル)」から足を離さない、そういうしっかりした軸足を感じられる点も、多くの人に愛される理由の一つではないかと思う。

今回、映画を見るに当たり、一話から見直すことにした。かなりの量だったが、通して見るとまた違った感触が得られ、長いとは感じなかった。映画の時系列が二期終了時の二週間後という設定や、今までのキャラクターが多かれ少なかれ登場していること、何よりアスナが「SAO」時代の記憶を失うことの重さを感じられたという点でも、見直しておいてよかったと思っている。もし映画を見る前に、ネタバレを承知でこの文章を読んで頂いている方には、今からでもテレビシリーズを見直すことを、是非お勧めしたい。

私は、テレビシリーズの中では、最も新しいエピソードの「マザーズ・ロザリオ」編が、特に好きだった。なので、絶対に描いてくれると思っていたシーンが、やっぱり訪れたとき、たった数秒の場面ではあったが、不覚にも少し泣いてしまった。エギル役の安元さんがパンフレットのインタビューでも語っているが、『「SAO」を1期、2期ともに愛してくださっている方であれば絶対に喜ぶような内容』になっているのは、間違いないと思う。

サブタイトルの「ORDINAL SCALE」(OS)は「SAO」や「GGO」と同じくゲームの名前であり、「ORDINAL」には「序数」という意味があるそうだ。「SAO」に対し、「OS」は序数で設計されている、というような話が作中に出てくるのだが、残念ながら私には理解の及ばないところの話である。さらに言えば、実は、私は「ORDINAL」という単語の意味さえ知らず、「普通の」「平凡な」といった意味の「ORDINARY」に近い言葉だと思っていた。なので、映画を見終わり、エイジやユナのことを考えたとき、キリトたちと同じく「SAO」という世界に閉じ込められながら、最前線で派手に戦ったりしなかった人々もたくさんいて、彼らにも自分たちの「SCALE(尺度)」があったという意味も含まれていたのだろうかと思ったりもした。私の勘違いに過ぎないのだが、そう考えてみるのも面白いのではないだろうか。

これからの「VR」「AR」が普及するであろう社会を考える上で、示唆に富む作品である。テレビシリーズ同様、期待に違わない完成度の高さだった。

 

『劇場版 ソードアート・オンライン -オーディナル・スケール-』

公開日:2017年2月18日(土)
原作:川原礫
監督:伊藤智彦
脚本:川原礫、伊藤智彦
制作:A-1 Pictures
製作:SAO MOVIE project

 

「超時空要塞マクロス 愛・おぼえていますか」

 

「超時空要塞マクロス 愛・おぼえていますか」

 


テレビシリーズ 「超時空要塞マクロス」の第二十七話までを再構成した劇場作品。ただの焼き直しではなく、細かい点は踏襲しつつも大胆に作り直している。

テレビシリーズと比べ、設定には若干の変化がある。たとえば、マクロスが地球を飛び立ってから五ヶ月が経っているが、輝とミンメイは出会っていなかったり、ゼントラーディが監察軍ではなくメルトランディ(ラプラミズやミリアら女性陣)と敵対したりしている。また、テレビシリーズよりもリアリティを増した分、死が近くなった印象である。ショッキングな描写も増えた。

wikiを読む限り、テレビシリーズは全三十九話予定だったものが二十七話に圧縮され、さらにスポンサーの都合で三十六話に延長した背景があったという。確かに、第二十七話が最終回だったと言われても違和感はなく、それ以降は後付けと見てもいいように思われる。そのためか、テレビシリーズの最終回は、どこかすっきりしない終わりだと感じていた。ミンメイが身を引いた形ではあったが、では、輝は未沙をはっきり選んだのかというと、私にはそうとも受け取れなかった。その点、劇場版では、輝は未沙を、ミンメイは歌をそれぞれ選び取るという明確な形で終わったのは良かったと思う。それこそまさに第二十七話の再現でもあるだろう。

劇場版で描きたかったものは何だろうかと考える。ゼントラーディら巨人も、地球人類も、遺伝子レベルでは同じという設定は変わっていない。テレビシリーズより強調されていると感じたのは、「男と女がいる意味」である。

プロトカルチャーは、自らの遺伝子工学によって、男は男、女は女で子孫を残せるようになった。その結果、男と女の交わりがなくなり、やがて、両者はいがみ合うようになる。これがゼントラーディとメルトランディの戦争の発端なのだが、裏を返せば、プロトカルチャーたちは、元は男女が共存する社会を持つ人々だったのである。

男女が争うことの間違いに気付いた一部のプロトカルチャーは、拡大する戦火から逃れ、地球にたどり着いた。そして、再び男女が愛する世界を構築するため、地球人類を「作り出した」のである。プロトカルチャーが地球人類に求めた、「男女が愛し合う」世界は、彼らが地球を離れてから二万年経っても、変わらず存在し続けることになる。「歌」を含め、さまざまな文化を「愛」から生み出しながら。

プロトカルチャーが残した「都市」で未沙が見つけたプレートは、ゼントラーディの司令ボドルザーが所持していたプレートと合わせることにより、一つの歌となって形を為す。女性の未沙と男性のボドルザー、両者の持つプレートによってよみがえった歌が、プロトカルチャーたちの「ラブソング」だったことは、示唆的である。

プロトカルチャーたちにも「歌」という文化があり、人類と同様に、彼らもまた歌に心を揺り動かされていたのだろう。ミンメイの歌う大昔のラブソングによって、ついに人類とゼントラーディとの戦争に一応の終止符が打たれることになる。歌という「文化」が戦争さえ駆逐するという、テレビシリーズでも描かれたテーマは、ここでもはっきりと描き出された。

「愛・おぼえていますか」というフレーズは、一目見ただけで、ずっと頭に残るようなインパクトがあり、見終わってみれば、「愛」というテーマはすでに示されていたことに気付かされる。そして、輝と未沙がプロトカルチャーの家で食事の真似をするシーンは、たとえ何万年経とうとも、文化は文化のまま、愛は愛のままだというメッセージが込められた、象徴的な一幕だったと思う。

信じられないほどの名作であり、見終わって思わず息を吐いた。そして、「あぁ、未沙よかったな」と、つくづく思った。

 

『超時空要塞マクロス 愛・おぼえていますか』

公開日:1984年7月21日
監督:石黒昇、河森正治
脚本:富田祐弘
製作:井上明、岩田弘、榎本恒幸
製作会社:ビックウエスト、毎日放送、タツノコプロ、小学館

 

「超時空要塞マクロス」

 

「超時空要塞マクロス」

 

いわゆる「ロボットアニメ」はエヴァンゲリオンが入り口だったが、その後も特にロボットものに惹かれることはなかったため、一世代前のガンダムやマクロスに興味が向かうこともなかった。ただ、最近は新作というより数年~数十年前のアニメを掘り起こすことに興味が向いており、このタイミングでロボットものの原点とでもいうべき作品に手を付けるのもいいかと思った。

マクロスを選んだのは、「マクロスフロンティア」のテレビシリーズを一から見たかったためである。というのも、私がマクロスシリーズで見たことがあったのは劇場版のフロンティアだけであり、高いクオリティながら、テレビシリーズのエピソードをだいぶ削ぎ落としているような印象があったのを残念に思っていた。劇場版の常と言ってしまえば、それまでだが・・・。かといって、劇場版のすぐあとにテレビシリーズを見返す気にもなれず、少し時間をおいた今、初代マクロスから一通り見てフロンティアにたどり着くのも面白いのではないかと思ったのである。

また、これは偶然なのだが、放送開始の1982年は私が生まれた年でもある。どこか運命的なものを感じたりはしなかったが、同い年ということで、いろいろ思うところもあったりした。年月とは恐ろしいものである、などなど・・・。

なお、この文章を書いている時点で初代マクロスはテレビシリーズから劇場版まで見終わっているが、両者は似て非なるものであり、ここではテレビシリーズについて触れることとし、劇場版については改めて感想を書こうと思う。

/ ※ /

そんなわけで、初代マクロスである。見る前は何となく固いイメージがあり、ひたすら戦争の悲哀を描くような話かと思っていた。なので「古き良き」という言葉が似合うような(実際、古いのだが)、どこか暢気というか牧歌的なところがあり、たまにコメディもあるような雰囲気は意外だった。もちろん戦争を扱っている作品であり、シリアスな展開も多い。登場人物たちはみな、死ぬことと真剣に向き合っている。だが、そういう悲哀さをもってしても作品を暗くしていないのは、人類の持つ「文化」、そしてそれに触発される「感情」が争いさえも駆逐するという、前向きなメッセージが込められているからではないだろうか。

作中、ゼントラーディが敵対する人類を「プロトカルチャー」と恐れたのは、例えば歌であったりキスであったり、要するに「動作」に過ぎない。彼らはその動作をもって「文化」と呼んでいた。それゆえに、文化に触れることによって起こる感情(例えば歌を聴いて感動することなど)まで正しく認識できず、ただ漠然としたインパクトを与える「文化」というものに恐れを抱いたのだ。

物語が進むうち、実はゼントラーディも人類も、遺伝子的には同じであるという事実が分かる。だが、まったく異なる時間を生きてきた両者である。ゼントラーディに至っては最初から「文化」を与えられておらず、戦うことがアイデンティティとなってしまっている。そんな、人類とは「異種族」であるゼントラーディが、人類の文化に感化され、感情を芽生えさせるという奇跡。それこそがこの作品が描きたかった最大のテーマではないか。そして、それゆえにメッセージ性の高い作品となり、多くの人間に影響を与え、今日に至るまで愛され続ける結果となったのではないか。

感情という点で見れば、男女の恋愛もテーマの一つだろう。マックスとミリアの展開には思わず笑ってしまったが、このノリが作品の良さでもある。輝と未沙の関係にもやきもきさせられ、特に未沙に対する輝の態度には納得いかない部分も多々あったが、ミンメイも含めた三角関係は作品を魅力的にしていたと思う。特に第二十七話は印象深かった。戦火にまみれる地球を背景にした輝とミンメイのキスシーンも幻想的だったが、私が特に印象深く感じたのは、統合軍司令部の地下にひとり残された未沙が、助けに来た輝と抱き合うシーンである。モノクロでありながらとても温かく感じられ、ミンメイの「愛は流れる」も相まって非常に印象的だった。

また、この作品は歴史上で絶え間なく存在してきた、戦争に巻き込まれる民間人の悲哀にも目を向けている。「突如として争いに巻き込まれ、住む場所を追われて漂流する民」。こう書けば、そのまま現在の難民の姿に重なるだろう。作中では淡々と描かれたが、マクロス内の住民は死んだものとして扱われ、地球への帰還も拒否される。その後、地球そのものが壊滅状態となり、マクロスの乗員が目指した「帰る場所」そのものが失われたのは、皮肉というほかない。そして、生き残った人々が再び地球で生活を営み始める中、地球の文化を絶やさないためにグローバルが出した結論、それが「宇宙への移民」だったのである。

いくら文化が発達しても争いはなくならないのか。文化では戦争をなくすことはできないのか。そんな諦めに似た疑問を投げかけつつも、この作品が卑屈になっていないのは、文化があれば、愛があれば分かり合える、分かり合えれば争いもなくなるという、明快でポジティブなメッセージが含まれているからだろう。そんな単純な話ではないと言うのは簡単である。だが、作品で理想や価値観を語らないで何を語るのか。最近のアニメが「軽く」なってしまったのは、世界観やキャラクターを型にはめることばかり考えて、人の感情の揺れ動きを丁寧に追わなくなり、当たり障りのない範囲から出ようとしなくなったからではないか。本当に描きたいものを、描くべきものを、省くようになったからではないか。効率という名の下に。

/ ※ /

さすがに三十年以上経っており、wikiを読み通すだけでも苦労する。今後のエピソードに関わる部分は慎重に避けつつも、久しぶりに記事を読むのが楽しい。特に、当時の制作事情は相当苦しかったことがうかがえる反面、その対策としての苦肉の策が成功するなどの皮肉なエピソードは興味をそそる。そして、そんなテレビシリーズの苦労(鬱憤?)が劇場版のクオリティに結実したことを考えれば、産みの苦しみがあったればこそだろうと思う。

見終わってみて、遅まきながらマクロスがいまだに愛されている理由を知った思いである。古くなっても色あせない魅力が、この作品にはある。

 

第四話

『宇宙でマグロを釣った人なんて滅多にいないわよ』

第五話

『地球をどんなに遠く離れたって、宇宙船の中だって、この街は私たちの街じゃない。今までと同じことをやるのよ』

第六話

『戦闘機同士の戦いでは、平然と引き金を引ける自分。輝は、心の片隅が、徐々にではあるが乾いてきているのを感じていた』

第八話

『一条輝にとって思いがけず手にした勲章よりも、ミンメイの喜ぶ顔が、そして自分がその笑顔を与えたことの方が嬉しかった』

第十一話

『宇宙は戦いで満ちあふれ、戦いのあるところにこそ命があるはずだ』

第十四話

『マクロスとは我々にとって、何なんだろう』

第十六話

『戦いは、何も生み出しません』

『一体、何機落とせば敵は来なくなるんですかね? 十万機ですか、百万機ですか!』

第十九話

『一度も撃墜されたことがないっていつも自慢してたのに、機体だけ残して逝っちまうなんてな・・・』


「あいつ、戦争をやめろって言ってる」

「戦争をやめろっていうことは、生きる目的を否定する恐ろしい考えなのに・・・」

「だけど、なんとなく分かるような気も・・・するな」

『どんなにやめたくても、やめられないことだってあるのにね』

第二十話


「あたしたちは死んだことになってるんだって」

「へぇ、じゃ、どこの国でもない幽霊市民ってこと?」

「それでもいいんじゃない? あたしたち、この船に慣れちゃったんだもん」

「マクロス人だもんな」

『皆さん、私は政治とか軍隊のことは分かりません。だけど、ここはずっと私たちが暮らしてきたところです。私たちは、みんな仲間でしょう? マクロスには、私たちの街もあります。これまでだってやってこれたんだもの・・・。きっと、これからだってできます!』

第二十一話

『いいんだよ。こんな生活、好きな人でもいなくちゃやっていけないよ』


「俺たち、これからどうすりゃいいのかね・・・」

「今日を精一杯生きる、それしかないんじゃない?」

「・・・そんなもんかな」

「そんなもんよ」

第二十二話

『俺はミンメイを守るために戦えばいいんだ。それだけでいい、それだけでいいんだ。ここから逃げられないんだったら、それだけでいい』

第二十三話

『ちゃんと口にしないで、分かってもらおうなんて虫が良すぎるわ』

第二十四話

『お礼を言うの、こっちの方だよ。あんたのおかげで、今までずいぶん助けられたしね。今までずいぶん文句言ったけどさ、あんたの管制指示、大したもんだよ』

『キクンノ  モクテキノ  タッセイト  マクロスヘノ  ブジ キカンヲ  イノル  イチジョウ  ヒカル』


「軍人の血を受け継いだお前が今さら理想だけで平和を語ろうという・・・。お前の乗ったシャトルを襲った連中は、和平の呼びかけに応じたかね?」

「血液型や遺伝子構造が同じであろうと、所詮は異星人同士。たやすく分かり合えるわけはない」

「未沙、同じ地球人がたった一つの統合政府を作るのに何千年間戦争を続けたと思うんだ」

『身近に居すぎるから、分からないってことがよくあるのよ? だから、心を許して、わがままな言い合いでケンカになる。でも、心の底では違うの。私とロイの時もそうだった・・・。そんな人、滅多に見つかるもんじゃないわ。言いたかったのはそれだけ』

第二十五話


「彼らはそれを “愛” と呼んでおります」

「・・・”愛”?」

「はい。奴らの社会生活の中で、なくてはならない人の心だとか」

『かつて我々地球人は長きにわたって争いを体験しました。言葉、肌の色、イデオロギー、宗教・・・そのほか、あらゆる困難を乗り越えて、今ようやく地球に平和の兆しをもたらせたのです。それができた私たちだ! ゼントラーディの人々に対しても同じではないだろうか? 宇宙に平和を! それこそ、我々の使命ではないか』

『愛があれば、星の違いなど関わりがないか』(言葉尻が不正確)

第二十六話

『いにしえに、プロトカルチャーと出会った者は、歌の、つまり文化に目覚めて戦いの意志を衰えさせ、そして滅んだのだ』

『我々ゼントラーディ人にとって戦いは命であり、戦うことにより歴史が積み重ねられてきた。しかし今また、文化というものに触れた我が兵士たちは、カルチャーショックで戦闘を拒否し始めたのです』

第二十七話

『おかしなもんだね・・・この小さなマクロスの中で、僕らの住む世界がこんなに違うなんてさ』

『それでもいいんじゃない? ひとりぼっちじゃないんだから』

第二十九話

『私、いったい何のために歌っているのかしら・・・』

『文化なんてモンにみんな浮かれやがって。どうせ一時的な熱狂に過ぎねぇ』

第三十一話

『我々はプロトカルチャーによって作られた、悪魔の人形なのだ・・・』

『文明がどれだけ進歩したとしても、戦争はなくなりますまい! プロトカルチャー人がたどった道のようにです。我々だけではない。あなたがたでさえ、戦争からは逃れられないのです』

第三十三話


「分からないものね、人の縁って・・・」

「人の心もね」

第三十四話

『君の歌に、人を想う優しさがあれば、君は本物の歌手になれる』

第三十五話

『誰だって似たようなもんさ。みんな毎日、いろんな物をポロポロ落としながら生活してるんだ』

第三十六話


「この地球の文化を絶やさぬためにも、宇宙への移民を始めようと思う」

「・・・宇宙移民」

「そう・・・可能な限り早く、可能な限り多くの星へだ」


「ミンメイさん、あなたは一体、誰のために歌を歌うの?」

「自分のため? それとも・・・あなたの歌を愛してくれる人たちのためじゃなくって?」

「あたしたちが戦いに行くのも、あなたが歌を歌うことと同じ理由なのよ」

『もう、歌をやめるなんて言わない』


「それがいつになるかは分からないけど・・・私が、本当の自分の歌を歌えるようになったら、その時は・・・」

「・・・その時は・・・」

「私も、乗せていただけますか? あなたの船に」

「よろこんで。そして、あなたの歌をこの宇宙いっぱいに響き渡らせましょう」

 

『超時空要塞マクロス』

放送期間:1982年10月~1983年6月
原作:スタジオぬえ、アートランド(原作協力)
シリーズディレクター:石黒昇
シリーズ構成:松崎健一
製作:毎日放送、タツノコプロ、アニメフレンド

 

「ノエイン もうひとりの君へ」

 

「ノエイン もうひとりの君へ」

 

量子力学的に存在すると考えられる別世界(作中では「量子力学の多宇宙解釈」)、俗に言うパラレルワールドをテーマに描く作品である。難解ではあっても非常に興味深く、過去・現在・未来を縦横に行き来するストーリー展開には息を詰めて見入り、異なる時空というものにゾッとさせられた。敵が味方になるなど少年誌的な展開もあり、独特な世界を追求していながら、絵柄とは対照的に入り込みやすい。難しいものを手放さない範囲でストーリー性や「描きたいもの」をしっかり見据えている印象を受けた。

「龍のトルク」という力を持つハルカは、近似値の「別の時空」を見ることができる。存在し得たかもしれない「似ているようで違う過去」や「起こり得る未来」の姿である。しかし、例えばハルカが無数の過去から「望んだ展開」をする過去を見つけたとしても、現在の(つまり、主人公として描かれている)ハルカの時空に影響を与えるわけではない。また未来が見えたとしても、それがそのまま確定するわけでもない。見えた未来とは別の展開が「現在」として確定し、過去へと流れていくこともある。

私たちの世界にはあらゆる可能性、無限の未来がある。それはつまり「幸せな未来」も「不幸な未来」も確定していない未知の世界が待っているということでもある。未来は無数に存在し、その未来はさらに可能性を広げていく。未来として描かれる「ラクリマ時空界」や「シャングリラ時空界」といった世界も、現在のハルカが生きている時空から枝分かれした「可能性の未来」に過ぎない。

幼い頃のハルカやユウたちは年相応の悩みを抱えた普通の子供たちであり、そこには明るい未来が待っているように見える。だが、「ノエイン」と呼ばれる存在がシャングリラでハルカに見せた未来の一つ、現在から数年後の彼女たちの姿は痛ましく、とても明るい未来とは言えない。さらに後の世界ラクリマは絶望を絵に描いたような世界である。

シャングリラとは、そんな不幸な世界に絶望したノエインが作り上げた世界。あらゆる時空を一つにして、この世から「不幸な未来」が生まれるのを防ごうとした「楽園」である。そこには誰も存在しない。誰も存在しないから認識もできない。だが二十四話でトビが語っているように、人と人が存在し、互いに認識することでその存在は確定する。たとえノエインの望む時空が完成しても、誰も認識できない(しない)以上、不幸がない代わりに幸せもまたなかったのではないか。「認識」という意味のノエインが、最終的に誰からも認識されなくなったのは皮肉としか言いようがない。

私がもっとも印象的だったのは、未来のアイ(アマミク)がイサミ(フクロウ)の死を知って祈りを捧げる場面である。同時期(という言葉は変だが)、子どもの頃の二人の距離は縮まりつつある。それが未来のアイの回想だったのか、それとも未来のアイが知っている過去とは違う時空へと進んだ話だったのか。どちらにしても、彼らがアイでありイサミであることは変わりない。過去の二人が幸せな時間を生きたということも、未来のイサミが永遠に失われたということも。

たとえどんな時空であろうとも、そこには未来が待っている。それは幸せでもあり、不幸でもあるだろう。無限の可能性という残酷な現実は、この世のあらゆる人間が受け入れなければならない。だからこそ、人は異なる時空の自分を、違ったかもしれない自分を想像するのかもしれない。変えられない過去を思いながら。

 

四話

『悪くないと思っても自分から謝りなさい。それが仲直りするコツ』

八話

『いいか、覚えておけ。逃げても無駄だ。逃げれば必ず負ける。それが嫌なら戦え、戦う勇気を持て!』

十一話

『量子的時空の安定が失われ、すべての時空が消滅する。・・・全宇宙消滅』

十四話

『もしもし、聞こえますか・・・どこかの時空の私、聞こえてますか?・・・私は元気ですか?・・・ちょっとだけ独り言、聞いてください・・・大好きなユウが悲しんでいるときは・・・助けてあげてください・・・私には・・・』

十五話

『時間も空間も、常に変化し確定しないものだと知ったとき、人間は存在の意味を見失ったのではないのか』

『君が存在する時空。君が存在しない時空。様々な時空は無秩序に分岐拡大していた。まさにカオス。無限の時空、それは無限の不幸なんだよ』

十七話

『傲慢ってなぁ、今生きてる、俺たち大人だけどな。・・・そんな俺たちが、子どもの未来を壊すことなんて、あっちゃいけねぇんだ』

十八話

『でもさ、本当にハルカってここにいるのかい? それとも、この時空は幻じゃないのかい? 君は幻の時空の夢を見続けているだけかもしれないよ』

十九話

『俺は思うんだ。子どもの頃って、直感だけで生きてたんだよな。大人になって社会の仕組みを知るにつれ、知恵だけで生きるようになるんだよ、多分さ』

『でもね、内田君。その科学がカネになると分かった瞬間から、経済学が幅を利かせてくるんだよ』

二十一話

『二人がここにいるから、私もここにいるよ』


「大人になることで自由になれるわけではない」

「子どもの頃には想像もできないほどの苦しみや悲しみに打ち砕かれる」

「だからな、強くなれ。より大きな悲しみや苦しみに出会っても乗り越えられるだけの強さを持て」

『量子的な不確定世界を確定させる現象は、人間の特異な量子的構造が原因となる。人の存在がすべてを確定させる。人は時空が重ね合わさってできている宇宙の根源であり、ネットワークの中心である』

『ラクリマの私は・・・笑ってたでしょ?』

二十三話


「先のことなんて分かんねぇよ」

「でもよ、未来なんて分かんねぇから面白ぇんだろ」

『この時空はね、すべての悲しみが集積した時空。だから人は存在を消した。人の存在が悲しみを生む。認識は誤解の始まりでもあるんだよ。だからね、人は認識することをやめ、個の存在を消し、集合と化した』

二十四話

『存在を確定させるには、人が人を観測し、認識することが重要なんだ。お互いを認識し、分かり合えれば、存在は確定できるんだよ』

『観測者は誰れだ』

 

『ノエイン もうひとりの君へ』

放送期間:2005年10月~2006年3月
原作:赤根和樹、サテライト
シリーズ構成:赤根和樹、大野木寛
監督:赤根和樹
アニメーション制作:サテライト

「Shelter」

 

「Shelter」

 

この作品は音楽プロデューサーであるPorter Robinson(米)が、同じくプロデューサーとして活動するMadeon(仏)と作り上げた曲「Shelter」のMVとして制作された短編アニメである。映像の原案もPorter自身のものであるという。そのため映像と音楽がきれいに融合しており、ひとつの世界観を完成させている。

「Shelter」という言葉が示す通り、少女は狭い世界で生きている。常にタブレットを持ち歩き、可視化された想像の世界を楽しんでいるように見える。だが、そこには常にぬぐいきれない寂しさが付きまとっている。彼女は誰かからの返信を待ち続けているのだった・・・。

物語の結末は私には想像の範囲内であり、驚きはなかった。だが王道と呼ばれるストーリーラインも、描き方を変えるだけでまた違った命を宿す。それは過去、幾度となく繰り返されてきた芸術的実験でもある。

新しいから価値があるのではない。普遍的なものを現代的に描くことによって、新しい「価値」が生まれるのである。そうして誕生したものが、やがて消化され、また別の「価値」を生み出していく。そこには新しい感動が待っているのである。

短い作品ながら、美麗な映像とともに描かれる世界は切なく、愛しい。

 

『Shelter』

公開日(youtube):2016年10月18日(火)
原案・原作:Porter Robinson
監督:赤井俊文
アニメーション制作:A-1 Pictures

公式サイト:http://sheltertheanimation.com/

「劇場版selector destructed WIXOSS」

 

「劇場版selector destructed WIXOSS」

 

劇場版が公開されると知ってから、ずっと心待ちにしていた。完全新作とはいかないだろうと思いつつ、どんなものが見られるかという期待もあった。

selectorの魅力は、実際のカードゲームを基にしたアニメであっても、そのゲーム的な部分を最小限に抑え、ドラマ性を追求したところにあると思っている。その点、プロデューサーの山口氏はスタッフコメントで、『魅力的なアニメがある前提で、商品も作っていきたいと思っていたので、その方向が間違っていなければ、アニメがカードゲームのルールブックである必要はない』と語っており、一種の賭けのようなものであっても、そういう描き方に挑戦しようとした点に、素直に好感を持っている。

一旦放映されたTVアニメの劇場版というものには「総集編+新作カット」という形態もよく見受けられ、特に、2クールのアニメを一つに凝縮する場合、やはり拙速になってしまったり、重要でありながら削られてしまう部分も出てしまうのが常である。TVアニメの「劇場版~」というものを見たことがある方なら、一度は覚えのあることではないだろうか。この点、脚本の岡田氏は、『多少意味が通らなくてもスピーディーに映像的な快感を優先』しようとしたと語っており、私自身、TVシリーズを見ているから理解できたところもあったのは確かである。ただ、新たに追加されたシーンが、ウリスという「悪」そのもののキャラクターを理解するための重要なポイントとなっており、その新しい視点から作品を見るという点で、TVシリーズとは、また違った感触を得られるのではないかと思う。

そして、TVシリーズの未来を予感させる終わり方も良かったが、劇場版の終わり方もまた、私にはグッとくるものがあった。佐藤監督曰く『プラスアルファ』である、その部分を見るために劇場に足を運ぶのは悪くないと思う。彼女たちの結末を見届けることができて、満足している。

(『』はパンフレットに依った。)

 

2016年2月23日(火) 角川moviewalkerに投稿。退会のため転記。

「風立ちぬ」

 

「風立ちぬ」

 

特に何の期待もなく見に行った。

庵野氏の声はまったく合ってないという意味でひどかった。予想してたけど、ありえないと思った。すごく苦労したのだろうけど、その苦労は必要なかったと思う。正直、誰でもよかったのだろうという印象は拭えない。煙草については何とも思わなかった。あれにケチをつけるのは野暮というものだろう。

ストーリーについては特に言うことはない。総じて、そんなに悪くはなかった。韓国での公開に際して特に波風は立たなかったという報道があったけど、この映画でそういうのは起こりようがないと思う。
この映画の主眼は戦争ではないし、主役は戦闘機ではない。戦争の時代を主人公は生きたという、それだけのことであり、ゆえに反省なき自己弁護のような描写もなく、必要もない。むしろ軍部の醜さ、滑稽さを茶化すようでもあり、本当に戦争に向かっていく日本なのかというほどのゆったりした空気が流れている。

ユーミンの曲は素晴らしかったけど、なんとなくこれじゃない感があった。すごく親和性が高そうに見えて、そうでもないという気がして不思議だった。