「マクロス ゼロ」

 

「マクロス ゼロ」

 

本作『マクロスゼロ』(以下、ゼロ)は、マクロスシリーズ生誕20周年を機に制作された。時代設定は西暦2008年であり、マクロスシリーズの第一作『超時空要塞マクロス』(以下、初代マクロス)の前日譚にあたる。

「ASS-1」と名付けられた宇宙船の落下以来、地球では異星人に対抗するための統合思想(統合政府)とその抵抗勢力(反統合同盟)によって紛争と内乱が多発するようになっていた。「統合戦争」と呼ばれる一連の争いは、統合政府の樹立によって一応の終結を見ていたものの、その後も両者の戦闘は継続し、本作の「マヤン島事変」へとつながっていく。西暦2067年を舞台にした『マクロスΔ』でも、新統合軍にいた頃のミラージュが「反統合勢力」と戦闘経験があると語っており(第6話)、反統合側の根の深さをうかがわせる。

また、今作でノーラが統合軍の残虐性を語るなど、統合政府が決して正義の味方ではないと思わせる描写はマクロスシリーズでたびたび散見される点である。統合軍のシンも反統合軍のノーラも、急激に一つにまとめられていく世界の被害者であり、心と体に深い傷を負っている。地球人として一つにまとまると言えば聞こえはいいが、統合することは痛みを伴うものであり、またそれまで存在した文化に「上書き」してしまうことでもある。

この「統合」とは「侵略」と同義ではないのか? 今作を見ながら、そんな疑問を投げかけられているように感じた。そして、その疑問は、バジュラとの戦いを描いた『マクロスF』や、ウィンダミアとの戦争を描いた『マクロスΔ』にも受け継がれていったように思う。マヤンの現状を通じて描かれた、土着の文化が掻き消されていく過程もまた「統合」という波を象徴している。マヤンのような島にも文明の波は押し寄せ、若い者は島を出て行って戻らない。都会という火に憧れてしまうのは、島を守る立場にあるサラであっても例外ではなく、もはやその流れに抗うことはできないだろう。そういった諦めに似たものが作中には漂っているように感じられる。


/ ※ /


本作はかなりのリアル路線であり、特に空戦シーンは鬼気迫るものがある。また、フォッカーの乗るvf-0の変形シークエンスは、今までのバルキリーが一瞬で変形していたものを細かく描いていて、こんな風に変形するのかと、そのリアルさに目を奪われた。

なぜ、そこまでリアルに描いているのか。それについては劇場版『マクロスF』(前編)のパンフレットにある河森監督へのインタビューが参考になりそうである。監督が『ゼロ』の取材でラオスを訪れた際、実戦経験もある案内人に「戦争はかっこいいことなんかない。もし映画を作るなら戦争体験なんかリアルに描かず映画ならではの "嘘" として描いてくれ」と言われたという。その翌日、バンコクの空港でアメリカの同時多発テロのニュースに直面した監督は、帰国後、テロのニュース映像を「ハリウッド映画」のように感じたと語る人が多かったことに、「現実のニュースやテーマ性を突き詰めたドキュメンタリーですら、伝わらない」と思い知らされたといい、『ゼロ』は「神話として描くしかない」と思ったという(パンフレット、p.22)。

「リアルに描くな」と言われながら、作品は徹底的にリアルである。これは矛盾しているようにも思えるが、テロのニュースに関する下りのように、映像がリアルであればある分、それは「嘘」の度合いを増していくのではないか。テレビ越しの「戦争」が、まるで映画だと思えてしまえるように。リアルなCGを駆使した映画が、限りなく「嘘っぽく」見えるように。そう考えれば、本作を徹底的にリアルに描いたのも、逆に「嘘」の度合いを強めようとした狙いがあったのかもしれない。リアルに描けば描くほど嘘に近づくというのはアイロニーを感じて興味深い。ただ、それでもミリタリー色が強すぎたのは、個人的にはやや残念な点だった。あまりに力み過ぎではなかったかと思う。


/ ※ /


この作品を見て何よりも嬉しかったのは、フォッカーを再び見られたことである。キャラクターデザインには美樹本氏も協力しており、声は神谷氏と、まさに「あの」フォッカーである。リアルになった分、昔の方が老けて見えるのは面白い現象だと思うが、酒癖、女癖もさることながら、やはり歴戦のパイロットであったことが改めて分かり、それだけでも見た甲斐はあったというものである。

また、フォッカーとアリエスが昔を語り合う場面や、「鳥の人」と一体化したサラの元へシンが飛び込んでいくシーン、マオがシンを見送るラストなど、今作には心に残る場面がいくつもあったし、考えさせる点も多かった。プロトカルチャーと人類の関係もより具体的に描かれ、マクロスを語る上で外せない作品になっていると思う。

それだけに場面転換やストーリー展開など、演出面で目に付く部分があったのはもったいなかった。このゼロこそ、一本の総集編として見たかった。

 


『マクロス ゼロ』

発表期間:2002年12月21日~2004年10月22日
原作・監督:河森正治
脚本:大野木寛
アニメーション制作:サテライト
製作:     ビックウエスト、バンダイビジュアル

 

「ヒトの本性」

 

 

「ヒトの本性」

 

 

人間に期待しすぎなんじゃないの

幻想を抱きすぎているんじゃないの

「凶悪犯罪が増えた」

本当に?

人間なんて、最初からそんなものなんじゃないの

理想に目がくらんでいるんじゃないの

残念ながら、人間なんて

ろくでもない生き物なんだ

それを知らずに、いったいどんな理想を持つの

現実を見ない理想の先に、見たい現実はないよ

見たくない現実を見た先に、理想は生まれるんだよ

理想と現実の順番を

まちがえちゃいけないよ

 

 

「或る、八月の日」

 

 

「或る、八月の日」

 

 

まとわりつく湿った空気

木陰にゆれる猫じゃらし

聞こえてくるピアノの音

見つめてくる猫の眼差し


夕立ちに降られ大粒の

雨滴の彼方に青い空

どこから降るのか見渡せば

後ろの空に灰の雲

雷鳴、轟き

雷光、瞬く

ひどく降る雨の中

蝉は鳴き続ける

濡れない場所にとまっているのか

鳴きやむつもりはないらしい

雷、雨、蝉に

ひどく騒がしい

どれかやめばいいものを

音に支配され雨宿るうち

夕立ちは静かに上がっていった

雷は遠くに移ったらしい

蝉は鳴くのをやめていない


向かう先に雲はない

蝉はひどく騒がしい

 

 

「願わくば」

 

 

「願わくば」

 

 

降ってきますように

この雪のように

掌に乗った結晶の形も

消えてしまいませぬように


叶えられぬと知りながら

そこに永遠があると信じていたく

解けてしまうと知りながら

消えてしまいませぬように


体温で結晶の形は崩れてしまい

跡には水が残ります

掌を伝い皺を流れて

地に積もった雪の中へ

ぽつりと落ちます


そしてまた

水の通った掌に

いくつも雪が降ってきます


解けてしまうと知りながら

消えてしまいませぬように

叶えられぬと知りながら

そこに永遠があると信じていたく


願わくば

そこに永遠がありますよう

 

 

「サイカイ」

 

 

「サイカイ」

 

 

最下位を知る人間は強い

這い上がれることを知っているからだ

最下位を知る人間は強い

落ちても死なないことを知っているからだ

最下位を走る人間は

遠ざかる背中を見ながら、走り続けなければならない

後ろに誰もいない中で、走り続けなければならない

最下位を走る人間は

死んでしまいたいほどの孤独の中で

同情にまみれながら、走り続けなければならない

最下位を知る人間は強い

自分が非力なことを知っているからだ

だから

最下位を知る人間は強い

いくらでも強くなれるから

 

 

「木」

 

 

「木」

 

 

人は皆、人類という木に生を受ける

葉として、果実として、あるいは樹皮として

木の一部と成る

瑞々しく、生を全うするそれらは

雨に打たれ、風に吹かれ、あるいは雪に降られて

いつの日か脱落する

一度、木を離れたものは

風に舞い、土に溶け、あるいは鳥についばまれ

同じ生を受けることはない

木は、刻一刻と変わり続け

新しい生を、生み続ける

人類という、その木は

 

 

「道」

 

 

「道」

 

 

風が吹き抜け

髪をなびかせながら

過去から今

今から未来へ続く道に立ち

私はどちらを向けばいい

足の裏を傷だらけにしながら

歩いてきた道を振り返るのか

歩いていく道を見つめるのか


風が吹き抜けていく

 

 

「錨」

 

 

「錨」

 

 

重たい錨を下ろそう

流されないように、失わないように


人はいつか死ぬ

隣に立つ、その人も

腕に抱く、その人も


だから、重たい錨を下ろそう

流されないように、失わないように


その舟は、簡単に壊れない

荒波に呑まれ、沈んでしまっても

いつか、浮かび上がってくる

いつか、そこに戻ってくる


だから、重たい錨を下ろそう

流されないように、失わないように

いつでもそこに、舟があるように

 

 

「君へ」

 

 

「君へ」

 

 

辛いときは耐えて耐えて、自分のものにしてしまえばいい

泣きたいときは泣いて泣いて、すっきりしてしまえばいい

笑いたいときは笑って笑って、好きなだけ満足すればいい

全て君の問題

君らしくあれ

 

 

「奇跡という存在」

 

 

「奇跡という存在」

 

 

奇跡は信じない?

偶然は信じるのに?

言うまでもなく

奇跡とは偶然だ

都合の良い偶然を人は奇跡と呼び

都合の悪い偶然を人は不幸と呼ぶ

つまり奇跡とは偶然であり不幸でもある

全て等価値

奇跡=偶然=不幸

偶然は信じられるだろう

人生は不幸ばかりだろう

なのに奇跡は信じない?

偶然の存在は信じるのに?

不幸の存在を否定しないのに?

言うまでもなく

奇跡は存在する

偶然が存在するからだ

不幸が存在するからだ

結局どれもこれも偶然

奇跡も不幸も言い方を変えただけ

偶然を言い換えただけ

奇跡も不幸もありゃしない

そこには偶然が存在するだけだ