「マクロスプラス」「マクロスプラス MOVIE EDITION」

 

「マクロスプラス」「マクロスプラス MOVIE EDITION」

 

(※ 本作の劇場版はOVA版を再編集した上で台詞や新規カットを追加したものとなっている。そのため本レビューではOVA版と劇場版を同時に扱うこととし、その相違についても触れていく。)

 

OVA版『マクロスプラス』及び劇場版『マクロスプラス MOVIE EDITION』は、TVシリーズ『超時空要塞マクロス』(以下、初代マクロス)放映から12年を経て制作された。

同時製作のTVシリーズ『マクロス7』が明るいコミカル路線だったのに対し、『プラス』は徹底したリアル路線を取っている。その点について原作・総監督の河森正治氏はインタビューで次のように語っている。


『実写的というか洋画的な切り口で『マクロス』世界をとらえたエピソードが『プラス』であるし、反対に漫画的なノリで作っていくような解釈で捉えたものが『7』であるというわけです。(中略)『マクロスプラス』とは、対極にありながらも、根本概念は共通しているんです。』(劇場版パンフレット、河森正治インタビュー)


私は『プラス』を見た後に『7』を見たため、そのあまりのギャップに戸惑ったのを覚えている。『プラス』がいわば初代マクロスから続く「正統進化版」という印象だったのに対し、『7』があまりに想像の斜め上を行く作品だったためだ。

だが『7』を見終わった今となっては、『プラス』と『7』、そのどちらがいいということではないと気づかされる。確かに『プラス』のリアリスティックでアダルトな世界観は素晴らしいが、『7』の明るくて一途な雰囲気も他では味わえない魅力を有している。両者とも常に新しいものを求める河森正治という人によって描かれる「マクロス」なのだと感じる。


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今作の主な舞台は「エデン」という惑星である。初代マクロスで描かれたゼントラーディとの戦争から30年経っており、ゼントラーディとのハーフも普通に存在する社会が形成されている。主人公の一人であるガルドもそんなハーフの一人だが、興味深く感じたのは、そこにゼントラーディへの差別がほのめかされている点である。

例えば第3話、模擬戦闘内で起きた事件を話し合う会議の場面でゴメス将軍は、ガルドに流れるゼントラーディの血を問題視するような発言をしている。また劇場版では過去のわだかまりが解けたイサムとガルドの会話中、ガルドが「ゼントラーディの」自分を憐れんでいるのかとイサムに問う台詞が追加されている。これはガルドもまた、自分がゼントラーディの血を引いていることに複雑な感情、コンプレックスを持っていたようにも思われる。

ただ、イサムとガルドの上官であるミラードは、ガルドがゼントラーディの血による闘争本能を抑圧している可能性を知りながら、それをあえて無視し、パイロットとしてのイサムとガルドを平等に扱おうとした。また兵士の間でもゼントラーディを隔てるような空気は特に感じられず、時間の経過によって両者が溶け込みつつあることを思わせる。

『7』でもゼントラーディの闘争本能がミリアを巻き込むテロ事件にまで発展する様子が描かれたが、同時にエキセドルらがプロトカルチャー(メッセンジャー)と接触する場面では、ガルド同様に混血児であるミレーヌをもって「平和の証」と表現している。異種族との邂逅や融和という初代マクロスの最も大きなテーマは、目立たないながらも『7』と『プラス』にもしっかり流れているように思う。


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本作が「マクロス」という名を冠していても、実際にマクロス(SDF-1)が登場するのは終盤、それもシャロンに操られるだけの人形のような存在としてである。その代わり重要な位置を占めているのが「可変戦闘機バルキリー」である。

マクロスシリーズを代表する要素の一つであるバルキリーだが、初代マクロスでは輝をはじめとする登場人物たちの「戦闘の手段」に過ぎなかった。しかし本作ではバルキリーの進化もテーマの一つとなっている。初代マクロスの第33話、フォッカーがバルキリーの可能性について語るシーンを思い起こさせる。

今作では第1話の冒頭、イサムが散発的な戦闘をするシーンが唯一の「戦争」描写であり、戦闘シーンの大半は人類が作った戦闘機同士の戦いである。「YF-19」、「YF-21」という新型試作機が登場するが、どちらも有人戦闘機であり、イサムとガルドがそれぞれのテストパイロットとして搭乗し、ライバル関係そのままに腕を競い合うことになる。

人が飛ぼうとした歴史は古く、その延長線上に戦闘機も存在している。人が飛ぼうとしたから、飛ぼうとしてきたから「今」がある。自身もパイロットだったというミラードは「人が飛ぶ」ということを「挑戦」と捉えていた。しかし、同じ空を飛ぶ「飛行機」であっても、無人機は意味合いが異なる存在である。そこには人が飛ぼうとする「意志」が存在せず、ゆえに人類の「挑戦」もまた存在しない。

無人戦闘機の完成を知ったミラードが「挑戦は終わった」と語ったのは、空という果てしないはずの世界が人類の挑む場所ではなくなったという意味だろう。この点はOVA版では若干分かりにくかったが、劇場版で台詞が追加されたことで意味合いがはっきりした印象である。


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そのように劇場版で明確になった点は他にもある。例えばルーシーとイサムのシーンが増えたことで、ルーシーの気持ちの揺れ動きが存在感を増したのもその一つである。だがもっとも強調されていると感じたのは、ミュンが持つ「歌うことへの未練」、さらに言えば、歌うことで誰かを感動させたかったという思いの深さである。

過去から目を背けていたのは、ガルドだけでなくミュンも同じだった。夢を忘れようと自分の歌を捨てたミュンにとって、いまだ夢の途上にあるイサムもガルドも、そばにいるだけで辛い存在だったのだろう。ミュンの「変わってほしかった」という言葉には、自分は変わってしまったから二人にも変わっていてほしかった、夢を諦めた「普通の大人」になっていてほしかった、そんな気持ちが含まれていたように感じられる。

また、劇場版ではミュンが気持ちを吐露する場面で台詞が変化しており、OVA版では「誰も自分に気づかない」といったニュアンスだったものが、劇場版では「気づいてほしかった」という悔しさをにじませるものになっている。

そんなミュンの心から生み出されたシャロンは、ミュンの持つ感情そのものである。すでに自我が芽生えつつあったシャロンは、ほかの誰よりもミュンの気持ちを理解し共感してしまった。歌で感動させたかったという思いの裏側に、本当はイサム一人を感動させたかったという思いがあったことも、そのイサムの心はミュンではなく「遙かな空」に向けられていたということを知ってしまった気持ちまでも。

ゆえにシャロンはミュンの気持ちのままに行動しようとした。イサムに大空を駆けるイメージを与え、感動させようとした。シャロンが一貫して持っていた目的、それは「イサムを喜ばせたい」という、ただそれだけだったのだから。


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劇場版で追加されたラストシーンでは、壊れかけたシャロンが一人つぶやき続ける。イサムを喜ばせようとしただけなのに「ナゼ」と疑問を繰り返し、最後までイサムは感動できたのかと問い続ける。

その光景は答えを求めることしかできない機械ゆえの、無機質な哀切に溢れていた。

 


『マクロスプラス』『マクロスプラス MOVIE EDITION』

発表期間:1994年8月25日~1995年6月25日
劇場版公開日:1995年10月7日
原作:スタジオぬえ/河森正治
総監督:河森正治
監督:渡辺信一郎
脚本:信本敬子
アニメーション制作:トライアングルスタッフ
製作:バンダイビジュアル、ビックウエスト、ヒーロー、毎日放送、小学館

「プラスティック・メモリーズ」

 

「プラスティック・メモリーズ」

 

この作品を見るのは二度目である。一度目は放映時だったが、できれば最初から最後まで一気に見たいと思うようになり、最終回を迎えるまであえて見ないようにしていた。

それから色々あって(要はすっかり忘れていたのだが)、ふと思い出し、折しもマクロス熱がゼロで一旦引いたこともあって、この機会に見ることにした。


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世界的大企業SAI社によって製造・運用されるアンドロイド「ギフティア」が社会に溶け込んだ、近未来の日本。SAI社に就職した新入社員「水柿ツカサ」が、寿命を迎えるギフティアを回収する部署「ターミナルサービス」へ配属されるところから話は始まる。

企業というリアルな箱の中でツカサという青年が成長していく、いわば「仕事モノ」である。この手の作品で、かつSFが取り入れられており、シリアスあり、ラブコメありな作品といえば『クラスルーム・クライシス』が思い浮かぶ。

プロデューサーの鳥羽洋典氏によれば、本作も当初は「学園モノ」と「仕事モノ」の両立を目指していたという。だが、監督の藤原佳幸氏が「学園モノ」という要素をそぎ落とし、あえてSF色も強くしないことで、出会いや別れといった『人間ドラマ』を重視する作品に落ち着いたという(電撃G's Magazine、2014年11月号、2015年1月号)。


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いわゆる「ラブコメ」であっても、作品に通底するのは、ギフティアの耐用年数が約九年というシリアスな現実である。

期限を迎えたギフティアは回収されるが、「OS」を入れ直すことで新しいギフティアとして再生させることもできる。だが、そのギフティアは体は同じであっても中身は別の存在であり、記憶や人格は継承されない。第八話のエルとオリヴィア(アンディ)のエピソードで、その点ははっきりと示されている。

この作品に安易な奇跡は用意されていない。回収するギフティアに対しアイラがかけ続けた言葉は、決して叶わない「夢」である。淡い期待を抱いていたツカサも、最後にはその事実を受け入れていった。これでアイラだけが特別だったなら、この物語は一気に色あせるだろう。永遠が存在しないからこそ、過ぎていく一瞬一瞬を精一杯生きる意味が生まれる。


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原作・脚本の林直孝氏によれば、『プラスティック・メモリーズ』というタイトルの意味は「ギフティアの記憶」のことであり、その記憶がデジタルなものなら、それを振り返る行為も、彼らの人生でさえもデジタルなのか、という問いかけを含んでいるという(電撃G's Magazine、2014年11月号)。

確かに、アンドロイドであるギフティアの記憶は「記録」なのかもしれない。一瞬で消せてしまうデータを「記憶」と錯覚しているだけかもしれない。だが、記憶であろうと記録であろうと、ギフティアにとっては大事な「思い出」である。そしてギフティアと共に過ごした者たちにとっても、その記憶は、ギフティアたちが確かに存在したという大切な「存在証明」として、心の中に生き続ける。

エピローグでツカサが語る言葉は、彼がアイラと出会わなければ生まれなかった言葉だろう。アイラとの思い出が彼を成長させた。ギフティアとして生まれ、ギフティアとして消えていったアイラという存在にも、生まれた意味が確かにあったのだ。


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どうあがいても、いつか終わりはやってくる。それはギフティアだけではない。人間だって、いつかは消えてしまう。それぞれの思い出を抱え、いつかやってくる、その瞬間までをどう生きるか。少し頼もしくなったツカサの姿に、「死」が終わりではないという真摯なメッセージを感じた。

 

第七話

『これが正しいのかどうか分からない。俺のただの独りよがりかもしれない。でも俺は、アイラに、この一瞬一瞬を少しでも楽しんでもらいたいって、思うんだ』


第八話

『思い出を作れるのは、今だけなんです。今、この瞬間しかないんですよ』


第十二話

『大切な人と、いつかまた巡り会えますように・・・』


第十三話

『もし、自分の命の時間が、あらかじめ決まっていたとしたら、俺ならどう受け止めるだろう。俺は、その限られた時間を、精一杯、生きようって思う』

 


『プラスティック・メモリーズ』

放送期間:2015年4月~6月
原作・脚本:林直孝
監督:藤原佳幸
製作プロデューサー:鳥羽洋典
アニメーション制作:動画工房