「超時空要塞マクロス 愛・おぼえていますか」

 

「超時空要塞マクロス 愛・おぼえていますか」

 


テレビシリーズ 「超時空要塞マクロス」の第二十七話までを再構成した劇場作品。ただの焼き直しではなく、細かい点は踏襲しつつも大胆に作り直している。

テレビシリーズと比べ、設定には若干の変化がある。たとえば、マクロスが地球を飛び立ってから五ヶ月が経っているが、輝とミンメイは出会っていなかったり、ゼントラーディが監察軍ではなくメルトランディ(ラプラミズやミリアら女性陣)と敵対したりしている。また、テレビシリーズよりもリアリティを増した分、死が近くなった印象である。ショッキングな描写も増えた。

wikiを読む限り、テレビシリーズは全三十九話予定だったものが二十七話に圧縮され、さらにスポンサーの都合で三十六話に延長した背景があったという。確かに、第二十七話が最終回だったと言われても違和感はなく、それ以降は後付けと見てもいいように思われる。そのためか、テレビシリーズの最終回は、どこかすっきりしない終わりだと感じていた。ミンメイが身を引いた形ではあったが、では、輝は未沙をはっきり選んだのかというと、私にはそうとも受け取れなかった。その点、劇場版では、輝は未沙を、ミンメイは歌をそれぞれ選び取るという明確な形で終わったのは良かったと思う。それこそまさに第二十七話の再現でもあるだろう。

劇場版で描きたかったものは何だろうかと考える。ゼントラーディら巨人も、地球人類も、遺伝子レベルでは同じという設定は変わっていない。テレビシリーズより強調されていると感じたのは、「男と女がいる意味」である。

プロトカルチャーは、自らの遺伝子工学によって、男は男、女は女で子孫を残せるようになった。その結果、男と女の交わりがなくなり、やがて、両者はいがみ合うようになる。これがゼントラーディとメルトランディの戦争の発端なのだが、裏を返せば、プロトカルチャーたちは、元は男女が共存する社会を持つ人々だったのである。

男女が争うことの間違いに気付いた一部のプロトカルチャーは、拡大する戦火から逃れ、地球にたどり着いた。そして、再び男女が愛する世界を構築するため、地球人類を「作り出した」のである。プロトカルチャーが地球人類に求めた、「男女が愛し合う」世界は、彼らが地球を離れてから二万年経っても、変わらず存在し続けることになる。「歌」を含め、さまざまな文化を「愛」から生み出しながら。

プロトカルチャーが残した「都市」で未沙が見つけたプレートは、ゼントラーディの司令ボドルザーが所持していたプレートと合わせることにより、一つの歌となって形を為す。女性の未沙と男性のボドルザー、両者の持つプレートによってよみがえった歌が、プロトカルチャーたちの「ラブソング」だったことは、示唆的である。

プロトカルチャーたちにも「歌」という文化があり、人類と同様に、彼らもまた歌に心を揺り動かされていたのだろう。ミンメイの歌う大昔のラブソングによって、ついに人類とゼントラーディとの戦争に一応の終止符が打たれることになる。歌という「文化」が戦争さえ駆逐するという、テレビシリーズでも描かれたテーマは、ここでもはっきりと描き出された。

「愛・おぼえていますか」というフレーズは、一目見ただけで、ずっと頭に残るようなインパクトがあり、見終わってみれば、「愛」というテーマはすでに示されていたことに気付かされる。そして、輝と未沙がプロトカルチャーの家で食事の真似をするシーンは、たとえ何万年経とうとも、文化は文化のまま、愛は愛のままだというメッセージが込められた、象徴的な一幕だったと思う。

信じられないほどの名作であり、見終わって思わず息を吐いた。そして、「あぁ、未沙よかったな」と、つくづく思った。

 

『超時空要塞マクロス 愛・おぼえていますか』

公開日:1984年7月21日
監督:石黒昇、河森正治
脚本:富田祐弘
製作:井上明、岩田弘、榎本恒幸
製作会社:ビックウエスト、毎日放送、タツノコプロ、小学館

 

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