「劇場版selector destructed WIXOSS」

 

「劇場版selector destructed WIXOSS」

 

劇場版が公開されると知ってから、ずっと心待ちにしていた。完全新作とはいかないだろうと思いつつ、どんなものが見られるかという期待もあった。

selectorの魅力は、実際のカードゲームを基にしたアニメであっても、そのゲーム的な部分を最小限に抑え、ドラマ性を追求したところにあると思っている。その点、プロデューサーの山口氏はスタッフコメントで、『魅力的なアニメがある前提で、商品も作っていきたいと思っていたので、その方向が間違っていなければ、アニメがカードゲームのルールブックである必要はない』と語っており、一種の賭けのようなものであっても、そういう描き方に挑戦しようとした点に、素直に好感を持っている。

一旦放映されたTVアニメの劇場版というものには「総集編+新作カット」という形態もよく見受けられ、特に、2クールのアニメを一つに凝縮する場合、やはり拙速になってしまったり、重要でありながら削られてしまう部分も出てしまうのが常である。TVアニメの「劇場版~」というものを見たことがある方なら、一度は覚えのあることではないだろうか。この点、脚本の岡田氏は、『多少意味が通らなくてもスピーディーに映像的な快感を優先』しようとしたと語っており、私自身、TVシリーズを見ているから理解できたところもあったのは確かである。ただ、新たに追加されたシーンが、ウリスという「悪」そのもののキャラクターを理解するための重要なポイントとなっており、その新しい視点から作品を見るという点で、TVシリーズとは、また違った感触を得られるのではないかと思う。

そして、TVシリーズの未来を予感させる終わり方も良かったが、劇場版の終わり方もまた、私にはグッとくるものがあった。佐藤監督曰く『プラスアルファ』である、その部分を見るために劇場に足を運ぶのは悪くないと思う。彼女たちの結末を見届けることができて、満足している。

(『』はパンフレットに依った。)

 

2016年2月23日(火) 角川moviewalkerに投稿。退会のため転記。

「風立ちぬ」

 

「風立ちぬ」

 

特に何の期待もなく見に行った。

庵野氏の声はまったく合ってないという意味でひどかった。予想してたけど、ありえないと思った。すごく苦労したのだろうけど、その苦労は必要なかったと思う。正直、誰でもよかったのだろうという印象は拭えない。煙草については何とも思わなかった。あれにケチをつけるのは野暮というものだろう。

ストーリーについては特に言うことはない。総じて、そんなに悪くはなかった。韓国での公開に際して特に波風は立たなかったという報道があったけど、この映画でそういうのは起こりようがないと思う。
この映画の主眼は戦争ではないし、主役は戦闘機ではない。戦争の時代を主人公は生きたという、それだけのことであり、ゆえに反省なき自己弁護のような描写もなく、必要もない。むしろ軍部の醜さ、滑稽さを茶化すようでもあり、本当に戦争に向かっていく日本なのかというほどのゆったりした空気が流れている。

ユーミンの曲は素晴らしかったけど、なんとなくこれじゃない感があった。すごく親和性が高そうに見えて、そうでもないという気がして不思議だった。

「星を追う子ども」

 

「星を追う子ども」

 

新海作品を映画館で見るのは今回が初めてで、あのきれいな映像をスクリーンで見られただけでもう満足というか。

多分、さんざん言われているであろう「ジブリ」云々は、パンフレットの監督のインタビューから、

「例えば作画監督の西村さんによるキャラクターデザイン。かつての東映長編や名作劇場で確立され、今ではジブリに濃く受け継がれていると思いますが、そういう日本のアニメーションの中で長い間親しまれてきた絵柄を今回は意識してもらいました。物語を伝える「容れ物」として普遍性を獲得しているキャラクターデザインだと思うからです。そんなふうに絵も物語も普遍性のあるフォーマットにして、しかしテーマとしては現在の自分の問題意識を盛り込んだ作品にしたい。」

という部分が参考になるんじゃないかと。確かに、ことあるごとにジブリのあのシーンこのシーン、あのキャラこのキャラが頭をよぎるけれど、やっぱり似ているのは外側だけだと思うし、似てると言ってもそこにはちゃんと違いもある。中身はジブリではないし、その中身を見たくて見に行くなら、ちゃんとそこには見たい新海作品があると思う。

今回の映画を見ながら、新海作品の魅力は「切なさ」じゃないかなと思った。甘くない切なさというか、そんな感じ。
あと忘れてはいけない天門氏の音楽も魅力の一つ。今回は一人ではなく編曲の多田彰文さん、エンディングの熊木杏里さんの三人で作ったそうで、内容に合わせた壮大な感じの曲が多かった気がする。よかったのはエンディングかな、歌詞が映像と合ってた。

本当は見に行こうか迷ってました。ジブリっぽいという先入観で、見たいような見たくないような・・・という。
でも、見に行ってよかった。

「言の葉の庭」

 

「言の葉の庭」

 
新海監督の作品は一通り見てきた(ごく短い短編は見逃しているかもしれないけれど)。その中で「言の葉の庭」は、おそらく現時点では最高傑作だと思う。少なくとも自分にとっては今までの作品で一番、気持ちが動かされた。

上映時間は短く、予告と短編(「だれかのまなざし」)、そして本編、すべての時間を足しても1時間で収まってしまう。そういう点では「ほしのこえ」と、そのディスクに収録された「彼女と彼女の猫」と似た関係にあるのかもしれない。

そこに原点回帰という発想があったのかは分からない。けれど「だれかの~」の視点が猫にあったこと、世界観が近未来的であったことを考えると、なきにしもあらずではないかと思う。

「雲のむこう、約束の場所」以降、長編の公開が続いたけれど、正直に言えば、どれもぴんとこなかった。映像的には申し分ない出来だと思ったけれど、これが見たかったのかな、という気持ちはどうしてもぬぐえなかった。
自分は「ほしのこえ」が好きで、何度となく見返している。「彼女と~」も。だから今作が短編で、存在感を持つ作品に仕上がっていたことがとても嬉しい。

だからといって短編だけ作ってくれと言いたいわけでは、もちろんない。長編もどんどん挑戦してもらいたいけれど、たまに今作のような短編に戻ってくれることも期待したいと思う。

最後に、音楽もとても良かった。今回は天門さんとのコンビではなかったけれど、いろんな人とコンビを組みながら柔軟にやっていってほしい。もちろん、天門さんとのコンビが最高だと思うけどね。

いい台詞があったんだけど、うろ覚え。「まわりの人は変わっていくのに、自分は15の頃から何も成長していない」といった台詞。今度、もう一回見たときに確認します。

2013年10月29日追記

「27歳の私は、15歳の頃の私より、少しも賢くない・・・。私ばっかり、ずっと・・・同じ場所にいる」

「ブブキ・ブランキ」(一期)

 

「ブブキ・ブランキ」(一期)

 
アルペジオで惚れ込んだサンジゲンの10周年作品。

初めは、いわゆる「ロボットアニメ」なのかと少しがっかりもした。ただ、ストーリー序盤から過去に起因する「裏」があるというのは匂わせており、覚えにくい名前と共に、とにかく消化して追いついていこうと思いながら見ていた。

終わってみれば、これはただの派手なロボットものでも、少年少女の成長物語でもなく、主人公の親世代である汀や礼央子らの、若い頃から今に至る「時の経過」や、その間に心の中に芽生えた「覚悟」を描いた話であると分かった。彼らの動機が一本につながっていく終盤の展開は熱かった。

特にエンディングがいい。歩いているのが礼央子であるのには理由があるのだろうと思っていたが、最後まで見ると、また違った見方をできるようになった。

また、ブレーキを掛けてしまいそうな「津波」を思い起こさせる描写や「戦術核」といったものまで恐れず描く姿勢も良いと思った。ちょっとしたシーンではあれど、5年、70年という節目が10周年と重なったことを意識したとみるのは考えすぎだろうか。

何にせよ、まだ描かれていない部分(ついに最後までほとんど姿を見せなかった薫子など)もあり、二期でどう展開していくのか楽しみにしている。

 

『ブブキ・ブランキ』(一期)
放送期間:2016年1月~3月
原作:Quadrangle
監督:小松田大全
シリーズ構成:イシイジロウ、北島行徳
脚本:イシイジロウ、北島行徳
エンディングコンテ・演出:松下周平
アニメーション制作:サンジゲン

 

「ウィッチブレイド」

 

「ウィッチブレイド」

 

ずっと見たいと思っていた作品。一話終わるのを早く感じ、2クールでも長いと思わなかった。

親子の関係、親になることの難しさ。親子であるとはどういうことなのか。子どもは親が思っているよりずっと大人で、それでも子どもは親を欲する。それは梨穂子もまりあも、そして幼い頃の母へのコンプレックスから歪んだ感情を抱いてしまった古水にも当てはまる。

物語中、誰よりも親であろうとしたのは、やはり雅音だろう。彼女の中心には常に梨穂子がいる。だが遺伝子操作で生み出され、常に自分の気持ちを客観的に観察していた玲奈は、自身の子供に接することで「理解不能な感情」を抱き、鷹山もまた、梨穂子と打ち解けると笑顔を見せるようになる。

生みの親か、育ての親か。この作品は、そのどちらも否定していない。絆とは見えない「理解不能」なところにあるけれど、でも確かに存在する。それがこの作品の語りたかったことではないか。

予告で雅音と梨穂子が手紙を交わすという演出は、予告でありながら本編の背後にある二人の心情の吐露でもある。全編を通して言えることだが、言葉が軽くなく、慎重に選んでいる印象を受けた。上辺だけの言葉ではないから、考えさせる。

温かくて切ない。面白さの理由は、そこにあるのだろう。

 

「お前たちは、唯一無二の親子だった」(14話)

「お前が大好きなんだよ、ママは」(15話)

 

『ウィッチブレイド』

放送期間:2006年4月~9月
原作:Michael Turner(Top Cow Productions)
監督:大橋誉志光
シリーズ構成:小林靖子
脚本:小林靖子、吉村清子、井上敏樹
アニメーション制作:GONZO

 

「アクティヴレイド -機動強襲室第八係-」(一期)

 

「アクティヴレイド -機動強襲室第八係-」(一期)

 
何となく名前だけ目にしていて、ちょっと気楽に見たいと思って見始めた。

嫌な言い方をすれば、最初から「安っぽい」感じは漂っていた。それでも警察権限の限界や、いわゆる「縦割り行政」の弊害、政治の腐敗などを絡ませていく展開は見ていて飽きなかったし、警察・公安ものとしてはゆるい部類に入り、「踊る大捜査線」のノリに近いと感じた。

ストーリーは基本的に一話完結で、各話ともいろいろ考えさせられるところがあり、少なくとも誠実にやろうという感じは伝わってきた。キャラクターを粗末にせず最後まで連れていこうという姿勢は、刻々と変わっていくED(後期)の演出にも現れていたと思う。(なぜか毎回どこかに現れる「あの子」を探すのも楽しかった。)

残念ながら、私は「巨大ロボット」や「パワードスーツ」といったものにあまり興味がなく、ましてや「鉄ちゃん」でもない。マニア心をくすぐるポイントがあるのだろうと感じつつ、あまり反応できない部分もあったが、マニアックなものは「分かる人にしか分からない」ところを突き詰めている面白さがあり、分からなくても総じて楽しんで見ることができたし、それが一番だと思う。

二期があるという話なので、次も肩の力を抜いて見られたらいいと思う。

 

『アクティヴレイド -機動強襲室第八係-』(一期)

放送期間:2016年1月~3月
原作:創通、フィールズ、フライングドッグ
総監督:谷口悟朗/監督:秋田谷典昭
シリーズ構成:荒川稔久
アニメーション制作:プロダクションアイムズ

「パンティ&ストッキングwithガーターベルト」

 

「パンティ&ストッキングwithガーターベルト」

 

軽いのを見たくて探していたときに、「あー、そういえば・・・」と見てなかったことを思い出して見ることにした。
事前知識として相当なイロモノであることは分かっていたけれど、思っていた以上に自由にやりきったなぁという印象。

まず、初回の説明文。

『【第1話】 仁義なき排泄 ダテンシティで人々が便器に食われる怪事件が多発する。』

この一文でこの作品がどういうものか分かろうというもの。1話目から主人公のベッドシーンとトイレシーンが見られるアニメってほかにあるのだろうか・・・。

下ネタ連発のアニメといえば生徒会役員共などもあり、今となっては特別珍しいということもない。
ただ、大抵はそういう原作があってアニメ化するのだろうし、オリジナルでこういうのは割と珍しい試みだと思う。

例えば下ネタ連発の漫画があったとして、それでも人気が出たのなら、たとえ放送コードぎりぎりでもアニメ化しようという話になるのであって、オリジナルで出すのは結構冒険だったんじゃないかなと思う。
グレンラガンの勢いがあった頃のガイナだからできたのだろうか。実際、制作にもグレンラガンのスタッフが多いとのこと。

内容は一回二話構成、基本的に各話完結のドラえもん的な構成。
以下、かいつまんで各話の感想など。

シリーズ前半のうちアクションと演出で魅せたのは1話と11話、うまいなぁと思ったのは6話だった。
1話は初回ってことでインパクト強かったのもあるけど、テンポがすごく良くて見てて楽しかった。

2話以降は下ネタ全開にしつつ本筋のストーリーとは関係ない「遊び」感丸出しで、それはそれで面白かったけど、ちょっとテンション下がったかなという感じ。
その分、映画のパロディを盛り込んでいてそれはそれで面白かったし、中でも6話の兵士の話は思わずニヤッと。

とはいえ、どのエピソードも大概で、特に9話の鼻クソの話は飛び抜けてヒドかったけど、その次の10話は下ネタ控えめなのに違う意味で見るの辛くなってきちゃったかな。ちょっと毛並みが違いすぎた。

それで、ようやく本筋が進んだのが11話。派手で割と真剣な戦闘シーンは「これを待ってた」って感じ。

ライバルが登場しつつ折り返しに入った後半は、ブブキ・ブランキの小松田大全がコンテと演出を担当した15話のテンションが良かった。トムクルーズっぽさが出てて「ほんとに下らねー」っていう笑い。

17話は珍しくシリアス(?)展開で、最初はどういう顔で見ていればいいのか分からなかったけど、でもちょっといい話。ゴーストも好きな映画だしね。といってもクソ全開だったのは間違いないんだけど。

19話~21話は多分、シリーズ通して一番意味不明だと思う。考えるな感じるんだ系。マサルさんで言うところのめそ・・・的な。この例えは古いかもしれない。

面白い回は多々ありつつも一番好きだったのは終盤の24話。派手でもないし、ずっと固定カメラで二人を映しているだけなのに、これが全然飽きない。二人の「なんか楽しくなってきた」的なテンションとか、ブリーフの「ギークっぽい男ってこうだよね」的な残念さとか、本当に見ていて楽しかった。

全編通して言えることだけど、音楽がとても良い。ミュージックチャンネルで流れそうなPV風の22話なんかも音楽を前面に出していたし、エンディングの曲もペルソナ4のopを思い出させるようないい雰囲気だった。

と、まぁそんな感じでスト-リーはあるんだかないんだかって感じで進んでの最終回だったけど、ラストは衝撃的、唖然とする最後だった。
おそらくは、これもまた何らかの作品のパロディなのかもしれないし、「よくあるパターン」という演出だったのかも。ただ、私個人としてはあまり好きではない終わり方だった。

下ネタなどは笑える範囲としても、そういう軽さでキャラクターの命まで扱うと笑えなくなってしまう。ジョーク作品にこういうことを言うのもどうかと思うし、ある意味、最後まで「らしさ」を貫き通したとも言えるけれど、それでも後味の悪いラストだったと思う。自由奔放で愛らしい作品だっただけに、最後ぐらいは大切にしてほしかった。

 

『パンティ&ストッキングwithガーターベルト』

放送期間:2010年10月1日~12月24日
原作:GAINAX
監督:今石洋之
シリーズ構成:ギークフリート
アニメーション制作:GAINAX

「たまこまーけっと」「たまこラブストーリー」

 

「たまこまーけっと」「たまこラブストーリー」

 

本当に見ていて楽しくて、ときに切なくて、あぁ、いいアニメだなと思った。さすが京アニだけあって、ディテールへのこだわりは群を抜いているし、一本の筋が通った丁寧な話作りは好感を持てる。

テレビシリーズは喋る鳥デラのインパクトが強く、ファンタジー色も濃かったと思う。どこかミュージカル的なテンポの良さに、笑いあり涙ありのドタバタドラマといった感じで、素直に楽しい。

だが、その後を描いた劇場版では、デラたちは冒頭のショートストーリーに登場するだけで、本編にはほぼ登場しない。そういうファンタジー色を廃し、たまこともち蔵の関係を真正面から描いている。ショートストーリーはテレビシリーズと劇場版をつなぐ意味があったのだろう。

テレビシリーズのメイン舞台は、たまこの店もある「うさぎ山商店街」であり、その商店街の住民たちも、ことあるごとに登場する。テレビシリーズは、そんな商店街の住民たちを含め、餅屋の娘として生きているたまこの「場所」の話だったのに対し、劇場版は、そんなたまこの内面に踏み込んだ、「たまこ自身」の話なのだと思う。女子高生である等身大のたまこを描くため、学校のシーンも多くなっていたのではないか。

幼い頃に母を亡くしているたまこは、女子高生の自分というより、自分の家、餅屋の娘であるという意識が強いのだろう。だから、いつか自分も恋愛をすると思ってはいても、どこか自分以外の世界の出来事のように感じている。だから、王子との結婚話が持ち上がったときも、自分のことより周囲の人間たちの変化のほうに戸惑ったのではないだろうか。

そんなたまこが、もち蔵の気持ちを受け取ったとき、漠然と「餅屋の娘」として生きていこうとしている自分から、はじめて、恋愛をする「17歳の自分」に目を向けることになる。日常はゆるやかに、あるいは突然に変化していくが、そんな変化を受け入れ、彼女が一歩を踏み出す最後は、希望にあふれていたと思う。

 

11話

『大事なものを手放すことで、手に入るものもある。手元にあることだけが、幸せではないのかもしれない』

『変わりたくない、変わりたい。人の心は裏腹で、背中合わせの思いを抱え、どっこい、明日を生きていく』

劇場版

『今日はいつでも、昨日とは違う。だから素晴らしい。そして、少し寂しい。その寂しさが、日々を味わい深くする』

『後悔の苦さは、何かをした証』

『男だ。自分が決めたんなら、それでいいだろ』

 

『たまこまーけっと』

放送期間:2013年1月~3月
原作:京都アニメーション
監督:山田尚子
シリーズ構成:吉田玲子
アニメーション制作:京都アニメーション

『たまこラブストーリー』

公開日:2014年4月26日
原作:京都アニメーション
監督:山田尚子
脚本:吉田玲子
アニメーション制作:京都アニメーション

 

「デス・パレード」

 

「デス・パレード」

 

この作品は「人間の死」というものと否応なしに向き合わされる。六話のようなコメディパートがあっても、全体的に言えば見ているのが辛くなってくる展開の連続である。

死んだ人間が訪れる死後の世界。そこには「裁定者」と呼ばれる存在がいて、死者の魂を「裁定」している。裁定とは、人間を「極限状態」に置くことで、その本質を見抜き、魂を「虚無」か「転生」に振り分けることだという。「虚無」なら魂の墓場に落とされ、「転生」なら別の魂となって現世に戻される。

つまり、たとえ「転生」送りになったとしても、元の人間に生き返るわけではない。この世界に送られてきた魂の話はすでに「終わっている」のであり、裁定とはただの事後処理にすぎない。ゆえに裁定者と呼ばれる者たちに感情は必要なく、彼ら自身も裁定することに何の疑問も意味も持とうとしていない。ただ機械的に作業をしているだけの存在である。

そんな世界にあって、ノーナは、感情を持った裁定者を作り出そうとする。裁定者は裁定するだけの「人形」である。だが「人間」に近づくことはできるかもしれない。そんな「人間の感情」を持った裁定者を作り、裁定させること。それがノーナの目的であった。そして、デキムはその「実験」の結果、人間に寄り添う裁定者になろうと決意する。それは変化を望むノーナにとって希望の始まりであるが、同時に絶望の始まりでもある。その絶望の意味をもっともよく知っていたのは、裁定者のトップであるオクルスだろう。

彼は容姿が奇抜でとらえどころがなく、不気味な存在である。デキムを変化させようとするノーナの行動を嗅ぎ回っている。だが、最終話で彼が語る裁定者の条件の四つ目は、裁定者という存在の悲哀そのものである。人間と違って死が訪れない彼らは、つまり永久に裁定をくり返す人形であり、人間と同じ感情を持ってしまえば、いずれは限界が訪れてしまう。死ねないのに、死という限界を望んでしまう。それは絶望以外の何者でもないだろう。

オクルスは裁定のシステムを作り上げた存在だという。もしかしたら、人間に近づいた裁定者を過去に見たがゆえに、ノーナの行動は無駄だと悟っているのかもしれない。オクルス自身が、そのなれの果てと考えることもできるだろう。

裁定者はどこまで行っても人形である。では、人間のように振る舞い、人間の感情を理解した人形を「人間」と呼べるのか。人形でも魂が宿っていれば「人間」なのか。人形と人間の境界とは魂の有無だけなのか。「人形」は「人間」になれるのか。この作品の本質的な問いかけは、そこにあると思う。

人間の魂を裁定する場面では、人間の醜さというものを嫌というほど見せられるが、中でも「復讐」「殺人」という最も重いテーマで描かれたのは、前後編に分かれた八話と九話だ。やってきた二人のうちどちらかが殺人者だという。一人は刑事、一人は血が付いた包丁を持った青年。状況から見れば明らかなようだが、背後関係が分かっていくうちに、今度は何が正しいのか分からなくなっていく。そして、もっとも心をえぐる形で物語は終わりを迎える。

このエピソードは内容もさることながら、ストーリー上、重要な転換点でもある。混乱した裁定の場で、裁定方法自体を正面から否定した「黒髪の女」によって、無表情を貫いてきたデキムが、はじめて「苦悶」を見せるのだ。そして、このエピソードをきっかけにして、彼もまた現在の裁定方法にはっきりとした疑問を持ち、裁定の意味を深く考え始める。

ノーナの暗躍もあったが、デキムの変化の起点にあったのは「黒髪の女」の存在だろう。初めからミステリアスな彼女だが、終盤ではついに自分の過去を取り戻し、裁定の対象となる。彼女がスケートとともに過去を思い出していく場面に台詞はなく、ただ音楽とともに、彼女の人生が走馬燈のように映し出されていく。作品中、屈指のシーンであり、ここだけでも見た甲斐はあったと思わせるに十分な場面だった。

最終話、デキムは仮想の現実世界を用意してまで、彼女をより深く知ろうとした。すべては彼女を知りたいがため、人間をもっと知りたいがため。だが結局、それもまた裁定なのだ。裁定できずに持てあましたマユを、強引な方法で裁定したギンティと何も変わらない。

デキムは最終的に人間の心に近づいたように見える。だが、結局はどこまでいっても裁定者であり、裁定を基準にしか考えられない。彼女との別れ際、彼女の満足そうな答えに「素晴らしい」と応え、これからも裁定者として、人間に満足してもらえる裁定をしていきたいと語る。その答えは裁定者の域を出ておらず、やはり「人間ではない」という冷めた印象を受ける。

だが、エレベーターの扉が閉じて彼女がいなくなったとき、デキムは一人「さようなら」とつぶやく。そこには、やはり「人間らしさ」を感じずにはいられない。デキムは、なぜ彼女に固執したか。最初にデキムの前に現れた彼女が、例外的に「死の記憶」を持っていると分かったとき、なぜ自分に裁定させてくれと言ったのか。スケートリンクで記憶を取り戻した彼女に「もっと分かりたい」「会えて本当によかった」と言ったデキムの中にあったもの、それは恋愛感情ではなかったか。「裁定者は感情を知ることができない」。だが、最後に笑顔を見せたデキムに、それができなかったか。

デキムの変化は、裁定者の世界を変えるかもしれないし、結局は変わらないのかもしれない。物語は、その後どうなったかを描いていない。だが、確定的ではない未来は、人間にも、裁定者にも平等に訪れる。変わるかもしれないという予感とともに。

 

二話

『人間のもっとも原始的な感情って何か分かる? ――恐怖よ』

三話

『「人生というのは、本当に不思議です」

「それぞれの人生は、まったく別々の物語を紡ぎながら複雑に絡んでいきます。そして、結末は誰にも分からない」

「そうね、死ぬまで分からない。ううん、死んでも分かってないのかも」

「でもさ、だから面白いんでしょ!」』

九話

『悲しみだけじゃない。人の数だけ感情があるの。怒りで理性を失う人のもろさ、愛情があるから恐怖を乗り越えることができる強さ。何一つ理解できてないくせに、それでどうして、裁定なんてできるの?』

『世界が残酷なのは当たり前なんだ、世界を変えられないなら、お前が変われ!』

『人は、あんたが思ってるほど、複雑なんかじゃない。もっと単純に、簡単なことで悲しんだり、怒ったりするの。そういうもんなの! ちょっとしたことにすぐ影響を受けて、どう転ぶかも分からないのに、生きて、それが人なの!』

十話

『人間はいつか死ぬから生きるわけではないんです。生きているから、いつか死ぬんです。生きることには意味がある』

十一話

『人と人は分かり合えないの。分かり合いたいって思うのは、間違いなのよ。死んでから分かるなんて、残酷だね、人生って』

『「MEMENTO MORI、死を思え、という意味があるそうです」

「いつか必ず死ぬことを忘れるな。そして、だからこそ今を生きる」』

 

『デス・パレード』

放送期間:2015年1月~3月
原作:立川譲/マッドハウス
監督・シリーズ構成・脚本:立川譲
アニメーション制作:マッドハウス